第17回講演録

中田力

文部科学省中核的研究拠点 新潟大学統合脳機能研究センター長

テーマ

北極星と桑の木:優しさの原点

プロフィール

1950年東京生まれ。76年東京大学医学部医学科卒。92年カリフォルニア大学脳神経学教授に就任、現在も臨床医として活動。 96年文部省(当時)学術審議会から、中核的研究拠点形成のプロジェクトリーダーに選出され、2002年新潟大学脳研究所に、こころの科学的探究を目指す統合脳機能研究センターを創設。05年日本学術会議により「日本国家が積極的に推進すべき科学プロジェクト」 15課題の一つに選ばれた「水分子の脳科学」を遂行中。近代MRI技術開発の世界的権威であると共に日本の医療改革にも取組む。著書『脳の方程式 いちたすいち』(紀伊國屋書店)ほか多数。

講演概要

人の「心」がどのようにして生まれてくるかの数理科学理論は、驚くほど詳細に理解されている。しかし、専門家でない限り、それがどのようなものであるかを知る必要はない。ただ、この近代科学が明らかにした「心の作られ方」が、誰にとっても身近な「心の特徴」を示していることは知っていても損ではない。その一つが「心の継承」である。人類はアフリカで誕生し、世界に移住した。人類の心の原点は、人類がまだアフリカで一つの家族であった頃の、「人類の幼児体験」に基づいている。一人一人の人間は知らず知らずのうちに、この「人類の心」を継承しているのである。

講演録

人間にとって、何もないところから突然何かを思いつくということは非常に難しい作業です。従って、世の中でよく語られる逸話にはもとになった出来事があることが多く、大抵の場合、科学的観測に基づいています。この何らかの経験が中心となって様々な話ができ上がってくることを、私は「心の継承」と呼んでいます。では、その「心」とは、一体どのようにでき上がってくるものなのでしょうか。

心は脳の高次機能


皆さんもご存知のように、人間が持つ一般的な感覚を五感(視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚)といいます。しかし、視覚、聴覚、触覚、臭覚に関しては、その感覚を捉える脳の部分があるのに対し、味覚にはありません。味覚は、他の四つの感覚によってでき上がる、複合的な感覚だからです。ですから、味覚は子ども時代の経験が強く残ると共に、あとになって変化もしていきます。一般的な記憶もそうです。このように様々な感覚で作り上げ、その後変化していく脳の働きを、私たちは「高次機能」と呼んでいます。

脳とは、このように様々な情報をなんらかの格好で蓄積していく器官です。そして、科学的な言葉を使えば、「心」とは「情報の塊」のようなものといえます。「心」の作られ方は、集めた情報がどのように固まっていくかという法則によって決まります。これは「ポリアの壺」という確率論で説明できます。その詳細は省くとして、基本的な特徴だけを挙げておくと、たくさんの操作が続けられているうちに、ある状態が決定され、それがどのような状態になるかということが、初期の操作に大きく影響を受けるというものです。言い換えれば、「心」の形成過程では、幼児体験が非常に重要であるということになります。

人間は他の哺乳類に比べて、前頭前野という脳の部分を大きく進化させました。その結果、自分自身が体験していない情報でも、時空間を超え、まるで自分が経験した情報の一部かのように活用する能力を得たのです。例えばネクタイです。今では、どうしてネクタイをするのか、その理由は科学的に証明できませんが、我々は疑問もなく身につけています。考えてみれば、学校で教わることのほとんどが実体験ではありませんよね。つまり、私たち人間の心の形成は、個々の幼児体験に大きな影響を受けていると同時に、人類の幼児体験にも大きな影響を受けているのです。

心の原点を探す旅


人間はアフリカから出発し、かつては一つの家族であったことは科学的にも証明されています。有名なギザのクフ王の大ピラミッドは、紀元前2530年頃にオリオン座を基準にした配列で造られたといわれています。大ピラミッドには、王室と女王室があり、南側の窓はオリオン座のアルニタクとシリウスへ、それぞれ向かっています。アルニタクは、夜と死後の世界を支配するオシリス、シリウスはその妹であり妻のイシスとして、エジプトで非常に愛されている神々を表しています。

一方、北側は、王室は当時の北極星である竜座トゥバンへ、女王室からはこぐま座へつながっています。なぜ北極星がポラリスではないかというと、地球は月から受ける引力によって歳差運動をするため、北極の方向が2万5920年の周期で回転するからです。王室が北極星へ向かっているのは、不動の星に自分を重ね合わせたためでしょう。女王室から向かっているこぐま座は、北極星が変わろうとも天の中心付近を常に巡っているという概念から、世界中で女性に喩えられています。

視点をアジアに移してみても、古代中国の漢の時代には星座の話が作られています。自分たちと同じ世界が空に存在すると思っていたことから、こぐま座を后宮、庶子、帝、太子、そして最も偉大な神という意味の太一を加えて「北極五星」と呼び、その北極五星を、地上の皇帝が住む紫禁城に対し、天の皇帝が住むという意味で紫微垣と呼びました。日本文化は中国文化に密接に関係し、最近見つかったキトラ古墳の天文図にも、紫微垣がしっかり描かれています。伊勢での諸行事には、太一の文字がよく登場しますし、無縁ではないのです。

さらに古い書き物として残っているものを調べていくと、紀元前4000年のシュメールの壁画がいくつかあります。神が人間をつくるときに自分に似せて形をつくったという壁画は有名ですが、そこにはもう一つ大事なものとして「生命の木」が描かれています。シュメール人にとって、生命を生むためには、木が必要だったのです。これは中国にも伝承され、三星堆遺跡で神樹と呼ばれる3メートルほどの木が見つかっていますが、桑の木だろうといわれています。

桑は、漢字が作られた殷の時代では、最も神聖なものとされていました。「孔子は桑の室の中で生まれた」という有名な話があるように、大木になると桑の中央には室ができ、そこから大切なものが生まれてくるという発想だったのです。
日本でも、桑は古典や平安時代の和歌に度々出てきますし、現代でも桑の木で作られた箸は長寿の縁起物とされていることからも、その重要性がうかがえると思います。

人類に継承される「心の原点」


さて、夜空で一番輝く星のシリウスを、なぜ王の神オシリスではなく女性の神イシスに与えたのでしょう。実は、シリウスは二つの星からなり、子どもを抱えた星だと考えられていました。そして、人々は冥界の王であるオシリスより、その妻であり、二人の子ホルスの母であるイシスを、より身近な神として慕っていたのです。どうも、我々が心の底で求めているものは、母が子に与えるような「無償の優しさ」なのではないでしょうか。それが、我々の「心の原点」として、最もふさわしいものだと思っています。

人間は、前頭前野を発達させた動物です。従って、人間を人間として決定づけているのは、この領域の働きであるとされています。では、そこが壊れてしまったら、どうなるのでしょうか。我々は、それを19世紀のフィネアス・ゲージという男性の臨床症

例から学ぶことになります。


彼は、事故で鉄棒が顔に突き刺さり、前頭葉をくり抜かれて前頭前野をなくしてしまいました。しかし、言語能力も運動能力も正常で、麻痺や異常はありませんでした。ただ、性格だけがまったく変わってしまったのです。かつては非常に従順なクリスチャンで、責任感も強く、人から愛される真面目な人間だったのが、いい加減な人間になってしまいました。

このことからヒトという動物を定義すると、理性や感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持った哺乳類といえます。一見、良いことばかりのようですが、実は、そこに裏があります。思考能力があるからこそ人を騙すこともでき、感情を抑えるからこそ鬱にもなる。そして、「切れる」と「残忍」にもなるのです。しかし、前頭前野の機能と思われるものの中で、「優しさ」だけは別格のようです。優しさには、裏がない。

このように考えていきますと、一つの結論が導き出されます。もし、人類が地球上に生まれてきたことに意味があり、そして、もし人類が心をつなぎながら何かを守ってきたとすれば、それは人間が人間である根拠の中で唯一、裏のないこと、つまりは人を思いやる心なのではないでしょうか。人類の心の原点は、「優しさ」にあるのです。

伊勢から南に下った志摩半島では、暁にオリオン座が昇ってくるのが見えます。日本では、オリオン座の三つ星を住吉の三神と呼んでいます。その姿は本当に神秘的です。一度、会い行かれてみてはいかがでしょう。