2003年度「五井平和賞」受賞記念講演

受賞メッセージ

ロバート・ミューラー

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本日「2003年度五井平和賞」を授与されますことを、たいへん光栄に思います。この機会に、私のピースメーカーとしての人生についてお話できることは嬉しいかぎりです。

私が生まれましたのはフランスの国境に近い地方で、家の近くを流れている川の向う側はドイツでした。子どもの頃、この境界線を越えることは禁じられておりまして、私はいつも、この国境がなくなる日を夢見ていました。私にとって、人間が地上に生きていることそのものが奇跡でした。生命は神聖でした。

父はある時はフランス兵で、ある時はドイツ兵でした。祖父は二回の戦争の間に国籍が四回も変りました。人が人を殺す戦争とは一体何なのでしょう。私には理解出来ませんでした。十七才か十八才の時、第二次世界大戦が起こり、ヒットラーは私たちをドイツ軍に組込もうとしました。私はそれを逃れようとあらゆることをしましたが、一度は捕まってしまいました。さらにフランスで危うく再度捕まりそうになりました。そして遂にはフランスの地下組織に加わり私も戦いました。

或る日私は、二十人の若いドイツ兵に対し、絶対に傷つけないからという条件で彼らを投降させました。リヨン解放のために仲間と出かけて戻ってきますと、その間に司令官はなんと二十人の捕虜全員を射殺してしまっていたのです。兵士たちの両親は、息子が死んだことも、それが何処だったのかも知る由もありません。その夜私は、皆が寝る干し草の山のなかで、月に誓ったのです。「生涯を平和のために捧げる」と。帰還すると、父は自分が半年間捕虜となっていたことを語り、「お前はこの先何をやるつもりか」と言いました。私が「平和を創ることを仕事にします」と言いますと、父は「戦争を起こす人間はいるが、平和を創る人間なんていないのではないか」と言いますので、「いや、私は平和の創り手になります」と断言しました。

その後ストラスブルグ大学の法科の博士課程の学生だった時、エッセイで賞を受賞しました。「いかに世界を治めるか」というテーマのコンテストでした。私のエッセイは一等になり、この賞で私はニューヨークにある国連のインターンに採用されました。私はその後の人生を、一九八七年に引退するまでずうっと国連で平和のために働きました。そして三人の国連事務総長の補佐として、平和のための数々のアイデアを提出しました。実は妻のバーバラが、「アイデアが沢山あるのだから放っておかずに書留めておいたら良いのでは」と言いますので、毎日書留めることにしたのです。平和のために、どのように何をすべきかを、忘れないためにも書きました。そして数日前、より良い世界のための夢とアイデアが遂に六千を越えました。

皆さんへの提案があります。今日のために数十の具体的なアイデアを書いた資料を用意しました。皆さんに出来ることは沢山あります。先ず、昼夜を問わず、平和について良いアイデアを思いついたら、それを書留めることです。そして躊躇せず、総理大臣に送ってもよいのです。例えば、日本は憲法で戦争を禁じている唯一の国です。アメリカの新聞は、日本の自衛隊活動の拡大を好意的に伝えていますが、日本はフランスと同じことをしてみたらどうでしょう。フランスでは警察はいっさいの銃器を持ちません。ピース・エージェントと呼ばれています。日本も自衛隊と警察を、平和をつくるピース・エージェントに変えてはどうでしょう。

最近マイアミでは、警察がすべて平和部隊に変り、旅行者を助けています。日本が軍隊も警察も持たず、平和部隊のみを持つ、世界初めての国になったらどんなに素晴らしいでしょう。このようなアイデアを日本政府にも送っています。そうすれば今度は他の人達に、フランスや日本を見習ったらどうかと薦める事ができます。それでは、フランスのように、又は日本のようにやってみよう、ということになるかもしれません。日本では広島、長崎で何十万もの人が原爆で命を亡くしています。日本は核兵器に対して戦いをいどまなければなりません。世界でそのようなことを再び許してはなりません。原爆で亡くなった人々の死を無駄にしないためにもそうするべきです。

このように、皆さんができることは沢山あります。五井平和財団が平和の創造を世界中で推進し、毎年最も優れた平和の創り手に五井平和賞を授与されていることは、とても素晴らしいことです。

最後に、祖父が教えてくれた大好きなベートーベンの「歓喜の歌」を演奏します。すべての人は地球という家に住む一つの大きな家族の兄弟姉妹とならん、という歌です。ハーモニカで歓喜の歌!(実際に演奏されました)

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