2012年度「五井平和賞」受賞記念講演

幸せの経済学

ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ

forum_address2012_1

世界的に著名な思想家や活動家の方々の後に続き、このたび五井平和賞を頂きましたことを大変光栄に存じます。これまでの受賞者の多くが私の友人や仲間であることも嬉しいかぎりです。さらに、五井平和財団のような権威ある組織が、より公正で持続可能な世界の構築支援に果たす経済のローカリゼーション(地域化)の役割を理解し、評価くださったことは、名誉であるとともに、大きな希望と励みになります。皆様の英知と支持に感謝し、世界各地で新たに起こっているローカリゼーション運動を代表して受賞の栄誉に与りたいと思います。

ローカリゼーション運動は、生態環境の破壊を防ぐのみならず、地球上の大多数の人々の生活の質を大きく改善する上でも大きな力になると信じております。私が代表を務めるISEC-the International Society for Ecology and Culture-は、30年あまりにわたって経済のローカリゼーションを推進してきました。私たちが実際目にしているように、共産主義も、社会主義も、今日のコーポレート・キャピタリズムも、同じ根本的な欠陥を抱えています。それらはいずれも、トップダウン・中央集権的・画一的なシステムであり、程度の差はあるものの、もっとも人間らしいことを抑圧し、自然の第一の法則、すなわち多様性の法則を否定しているということです。ローカリゼーションは、まったく異なる世界観、つまり多様性を称え、異なる生態系・風土・文化を尊重し、コミュニティの重要性を認める世界観から生まれるものです。

では実際にはどのようなことなのでしょうか。簡単にいえば、ローカリゼーションとは、生産と消費の距離を縮めること、増えるばかりの世界貿易への依存から離れ、代わりに地元・地域レベルでの自己依存・自立を促進することです。だからといって、国際貿易をやめようということではありません。多国籍大企業を統制して、彼らに地域に基盤を置き、各国への説明責任を持つよう求めることを意味するものです。

そうした動きがもたらす便益は多大です。エネルギーの消費を大幅に削減し、真の民主主義の回復を助け、貧富の差を縮め、個々人が人生の意義や目的意識を取り戻すことにもつながります。私はこれを「幸せの経済学」と呼んでいます。

これまで私は、ヨーロッパでもアジアでも、ローカルな経済が比較的失われていない地域に暮らす環境に恵まれてきました。そうでなければ、経済とコミュニティと環境との極めて重要なつながりに気付くことはなかったかもしれません。この意味において、私の偉大な師は、西ヒマラヤの高地にある辺境の地「リトルチベット」と呼ばれるラダックです。私は、この35年の大半をラダックで過ごしてきました。ラダックは今や私の第二の故郷です。初めてラダックに行った時から現地の言葉は不自由なく話せましたので、いわば内側から文化に触れることができました。こうした経験は、私の今の世界観に大きな影響を及ぼしてきました。

ラダックは、千年以上にもわたり、豊かな文化に恵まれた地でした。昔からの慎ましさと協調の精神に加えて、環境に関するその土地固有の奥深い知識を基に繁栄してきました。誰もが食べるに十分なものを持ち、家族やコミュニティは強い絆で結ばれ、女性の地位も高いものでした。

ラダックの伝統文化のもっとも傑出した面は、おそらく、人々の自己意識であったと思います。私がラダックに暮らし始めた当初は、ほとんどの人が人間的な規模のコミュニティの中で大家族で暮らしていました。相互扶助の深いつながりのおかげで、人間関係のストレスは最小限のものでした。衝突や対立がほとんどない平和な文化でした。幼い子の世話は、兄弟姉妹、両親、祖父母、叔父叔母が皆で担い、お年寄りも日々の生活に欠かせぬ一員でした。

重要なこととして、こうした相互依存関係は、経済の仕組みによって強化されていました。住民たちは毎日の食においても相互に依存していました。種を交換し、耕作や脱穀など農作業に使う役畜は共用していました。このような経済交流がギブアンドテイクの構造的関係を生み出し、物質的のみならず精神的な安定をもたらす形で人々の絆を深めていました。

また、他の伝統文化と同様、ラダックの人々の土地とのつながりは深いものでした。生きていくために必要なものは自分の周辺の生物界に依存していました。いくつかの例外はあるものの、衣食住はどれもその土地で生産されていました。必需品のほとんどは歩いて行ける圏内で用が足りていたのです。その土地のことを熟知し、限界についても分かっていました。持続可能な方法で土地と共生していく道も知っていました。

この30年あまりの間に、ラダックにも次第に経済開発の波が押し寄せるようになり、企業に支配されるメディアや広告、観光産業、農薬、欧米式の学校教育、消費財と、住民はそれまで目にしたこともない外からのさまざまな影響にさらされるようになりました。政治権力はラダック地方の中心都市レーに集権化され、外部の貨幣経済への依存が生まれてきました。悲しいことに、ラダックの人々は、自分たちや自分たちの文化を発展の遅れた劣っているものと考えるようになり、欧米式の都会のライフスタイルを取り入れなければと思うまでになりました。この20年間、私は、レーが無秩序・無計画に拡大していく様を見てきました。今や道には車があふれ、ディーゼルの排気ガスの臭いでいっぱいです。かつてきれいだった川も汚染され、飲料水としては用い得なくなりました。以前は存在しなかったホームレスも生まれました。失業者もたくさん出ています。失業など、昔の文化では考えもつかなかった概念です。民族間や宗教間の軋轢も増してきました。過去500年間には実質的になかったことです。

こうしたラダックの変化を目の当たりにして、私は基本的な経済原理に疑問を持たざるを得なくなりました。大半の欧米人と同様、私も、経済成長は進歩を意味し、さまざまな成長の代価は不幸なことだけれども必要だとばかり思って大きくなりました。しかし経済学者が説く成長の意味を考えれば考えるほど、コンセプト全体に根本的な欠陥があることに気付いていきました。国内総生産(GDP)は、たとえば、戦争に関わるあらゆる経費をバランスシートのプラスの側にカウントしていることは、今では私も知っていることです。石油流出や核汚染などの災害後の処理費用も同様です。犯罪率が上がり、あるいは水源が汚染されているためにミネラルウォーターを買うようになっても、経済「成長」と称されているのです。

単なる会計上の問題ではありません。他の事柄より経済成長の追求を最優先したことで、地球は危機に瀕しています。気候変動はかつてない規模で人類に脅威をもたらしています。世界中で、うつ病、自殺、依存症の発生率が増加しています。かつて富裕だった国々も多額の債務を抱え、事実上破綻している国もあります。

このような破綻の兆候は、他の点では有効と言えるプロセスの残念な副産物ではありません。人間と地球の真のニーズを把握しないままの経済活動がもたらしている直接の結果にほかなりません。支配的な経済活動に手直しを加えるだけでは十分でないことは、ますます多くの人が気付いていることです。私たちは根本的な変革を必要としています。

グローバル経済は、3つの重要なメカニズムによって存在しています。規制、税金そして補助金です。それらは、大企業に不当なまでに多大な優位性をもたらしています。

ひとつ目の規制ですが、グローバルな貿易と金融に対する規制は、成長の名の下ますます撤廃が進む一方で、ローカルマーケットは官僚的形式主義に縛られているのが一般的です。多国籍企業や銀行に対する制約は「自由貿易」の名の下排除され、相互連関の密なグローバルな帝国を生み出し、私たちが選出した議員は企業の僕同然となりました。

その一方で、国レベルでの規制は、多国籍企業と競合する中小企業を脅かすことが多く見られます。養鶏場を例にとってみましょう。何段にも積み重ね並べた小さなケージに鶏を詰め込んで飼育する大規模なバタリー式養鶏場に対しては、厳格な環境・保健規制が必要なことは明らかです。何万羽もが過密飼育されていると、病気にもかかりやすく、何トンもの高濃度の廃水を安全に処理する必要も生じます。さらに鶏肉を長距離輸送すれば、腐敗のリスクも伴います。しかしこうしたリスクも、事業規模を家族経営の養鶏場にまで縮小すれば、ほとんどなくなります。それにもかかわらず、数十羽の鶏を放し飼いしている小規模養鶏場にも、基本的に同じ規制が適用されており、多くの場合これらの養鶏場は、事業の存続が危ぶまれる程のコスト増に苦しめられています。

さらに税金と補助金が公正な競争条件を歪めています。世界中で、法外に高い労働税、あるいはエネルギーや技術に対する多額の補助金を背景に、先進技術が多用されるとともに、人件費がまだ比較的安い地域や国への雇用の「アウトソーシング」が進んでいます。こうした慣行は、地球規模で事業を展開する企業には利益をもたらす一方、地方の食料品店のニーズにはほぼ無関係です。さらに重大なこととして、汚染と失業の深刻化を直接的・必然的に引き起こします。

15年ほど前、私たちは、‘Small is Beautiful, Big is Subsidized’と題する報告書を作成しました。内容はそのタイトル通りです。私たちが納めている巨額の税金は、グローバル経済に必要とされる道路、空港、通信などインフラ施設の整備に使われ、輸出助成金をはじめ直接の支援は、長距離貿易に携わる企業により有利に機能しています。結局のところ、地球の裏側から来る商品の方が地元で生産される商品よりはるかに安い価格で販売されるという結果をもたらしています。オーストラリアのスーパーマーケットでは、国産のオレンジよりもカリフォルニア産のオレンジの方が安いのです。ラダックのモダンな店では、ヒマラヤ山脈を越えてトラックで輸送されてきたバターの方が1マイル離れた農場のバターより安く売られています。

さらに信じられないことですが、ある国がある製品を輸入しているとしたら、その国は同じ製品を同じ量だけ輸出しているのがごく普通のようです。最近の統計から2つ実例を挙げると、米国はおよそ365,000トンのジャガイモを輸入していますが、同時に325,000トンを輸出し、英国は114,000トンの牛乳を輸入していますが、119,000トンを輸出しています。特殊な例でも、統計の妙でもなく、典型的なことのようです。化石燃料の燃焼に起因する気候変動による混乱が迫り来る中、これが狂気の瀬戸際にある経済なのです。

この経済の中で唯一の勝ち組は大企業です。大企業は共同で事実上ルールを作り、さらに多くの自由と権限を大企業に与える通商条約に加入するよう政府に多大な圧力をかけています。その上、大企業には、教育制度全体に影響を及ぼして、ますます自分たちのニーズに適合した制度にさせる力もあるのです。科学研究、メディアなど実質的にあらゆる情報アクセスは今や、主として企業の利害によってコントロールされています。

とは言え、大切なことは、善人・悪人、良い企業・悪い企業の問題でないことを認識することだと思います。中小企業であっても、心が狭く欲深い人が中にはいるように、多国籍大企業にも、道義心に富み、社会的問題への関心も高く、正しい行動に努めている人もいるでしょう。機能不全に陥っているのは、実のところ、経済システムそれ自体の構造です。

グローバリゼーションが引き起こしている悪影響についてここで詳しく論じるつもりはありません。それはテレビや新聞で日々報じられています。しかしメディアでほとんど報じられない深刻な問題について、一言申し上げたいと思います。それは、私たちの心、あるいは自己意識に対する影響です。グローバリゼーションは一種のゼロサムの競争を生み、そうした競争の中では勝者はほんの一握りにすぎません。国対国、企業対企業、従業員対従業員。一人ひとりは、「頑張れ」、職にしがみつけ、いつも時間が足りないなど、常にプレッシャーにさらされています。自分は無力だと感じがちです。

さらにたえず、消費主義の巧みに組み立てられたメッセージを浴びせられています。若者はとりわけ影響を受けやすい立場にあります。私たちと同じように、若者は人に受け入れられることを願い、居場所を求めています。そんな彼らは、仲間の尊敬を集めたいのなら、最新のランニングシューズ、最新の携帯電話、最新の機器を持っていなくてはならないと聞かされるのです。しかしそれがもたらすものはなんでしょうか。ねたみを買い、かえって疎外感を覚えるのが常でしょう。これはまさに、彼らが本当のところ深いレベルで求めている人とのつながり-愛-とは正反対のものです。

私たちが危機的な状況にあるのは間違いありませんが、それでもまだ未来を楽観視できる十分な理由が3つあります。第一に、私たちが今日身を置く混乱は、人間の内なる欲深さや他の欠点がもたらしたものではないということ。政治判断がもたらしたものです。こうした判断は変えることができます。第二に、私たちが今日直面する問題の大半-環境問題、社会問題、経済問題、さらには個人的な問題-は、関連しているということ。個々の問題を単一の問題として個別に解決しようとする必要はないのです。ひとまとまりの問題として一括して取り組むことが可能です。第三に、実行可能な真の代替策があるということ。より公正な人間関係、よりクリーンで健康的な環境、より深い幸福感を得られる経済を構築する方法です。

経済のローカリゼーションは、「万能薬」です。グローバル経済とはまったく対照的に、人間と生態系の基本的ニーズに適合するからです。それは、顔の見える関係、コミュニティ、そして「自然は有限であり、それを尊重しなければならない」という理解の上に成り立つものです。生産者と消費者の関係を近づけることによって、透明性と説明責任だけでなく、市民の参加も増します。私たちは、単なる「消費者」という立場を超えて、自分たちの必需品の提供に一層積極的に関与することが可能となります。巨大な多国籍企業が文化を創造し、政治的優先事項を決定するのを許しておく代わりに、社会がルールを策定できるのです。

コミュニティに基盤を置いたローカルな経済は、健全なアイデンティティ意識を私たちの子どもたちに育むものであり、彼らの幸福と健康にとってとりわけ重要です。子どもの発達に関する最近のリサーチは、幼児期において両親、兄弟姉妹、そしてより大きなコミュニティとの関係の中で自分の在り方を学ぶことがいかに大切かを論証しています。この肉親のロールモデルは、後の人生の重要な基礎となるものであり、メディアが作り出した著名人、いわゆる「セレブリティ」のロールモデルとはまったく異なるものです。

ローカリゼーションを絶対的なものとしてとらえるのではなく、プロセスあるいは道筋として考えることが大切です。その道筋が最終的にどこに至るのかは、世界中の異なるコミュニティ、異なる文化がそれぞれに決定すべきものです。ですから、最終目標ではなく、基本方針と考えるべきです。はたして経済はコミュニティの結束をもたらしているか。有意義で充実した労働をもたらしているか。限られた少数のニーズだけでなく、皆のニーズに対応しているか。持続可能な方法で自然資源を活用しているか。人々の幸せに貢献しているか。従来の経済学では、そうした考慮すべき事柄はよくても建前だけです。ローカリゼーションの経済学では、それらに焦点が当てられます。

ローカリゼーションで重要なのは規模の問題です。グローバル経済では、大きいことがいいことになります。大企業が、大量の製品を長距離を越えて売買し、膨大な利益を上げています。ステロイド経済です。私たちは代わりに、小規模な経済活動を支援することが必要です。何もかもを村や小さな町のレベルに縮小するという意味ではありません。良し悪しはともかく、現実的ではありません。一定の製造プロセスには規模の経済が有効であることは明らかです。とは言え、経済の方向転換を図ることは可能であり、また私たちはそうしなければなりません。先ほど説明したような不必要な貿易にストップをかけ、物品もサービスも、特に生活必需品は、合理的に可能な限り地元周辺で調達できるように努めるべきです。

ローカル経済の基盤となるのは、地元レベルで物品やサービスを提供し、地元住民に有意義な雇用を提供する中小企業です。地元の企業を支援する経済的利点は明らかです。小規模な会社で使ったお金は、1ドル当たり5ドルから14ドルの価値を地元に生み出しますが、チェーンストアで同じ1ドルを使っても、そのうち80セントは即刻町から出て行ってしまうことはリサーチで明らかにされています。

金融機関も小規模であることが必要です。「大きすぎて破綻できない」銀行の話を耳にします。しかし、ますます多くの人が気付いているように、これらの銀行は大きすぎて破綻できないのではなく、ただ大きすぎる、それだけなのです。銀行の救済措置に怒った何百万人もが、小規模な地方銀行の方をよしとして、大銀行から預金を引き出す事態にもなりました。

主流派の経済学者らは、企業が存続するためには成長が不可欠なのでローカリゼーションは長期的にはうまくいかないと、当然主張するでしょう。しかし私たちは、自分の人生経験から、それは真実でないと知っています。ごく最近まで、靴屋から会計事務所に至るまで、あらゆる種類のビジネスは、継続的な拡大の必要もなく、所有者には着実に利益を、従業員には安定雇用をもたらしてきました。この種のビジネスは、実際、コミュニティの根幹として、何世代にもわたって地方経済の結束を生み出す働きをしてきたのです。成長が不可欠となるのは、経済が遠く離れた投資家の手に委ねられ、住民や地元とのつながりが失われた場合にかぎるのです。

ローカリゼーションを支持する議論が何よりも説得力があるのは、食糧と農業に関してです。数カ月毎に新しい靴を買い、5年毎に新車を買う人も中にはいるでしょうが、しかしこの地球に暮らす私たちは誰でも、少なくとも1日に2度は食べ物が必要です。その食べ物がどのように生産されて市場で売買されるのかが、私たちの生活を形作る上で基本的な役割を果たします。実際のところ、グローバリゼーションの解体、つまり、経済をローカルに戻すことを目指す上で、食べ物が何よりも重要な要素となります。

食糧経済のローカリゼーションがもたらす便益はたくさんあります。農業多様性や生物多様性の拡大、化学肥料・農薬・保存料の必要の減少、包装や加工処理の減少、輸送の減少、「中間業者」の減少、雇用増大、小規模農家の利益幅の増大、高価な技術や化石燃料の必要の減少、コミュニティの強化、健康により良い食生活、より安定した食糧供給、よりクリーンな環境など、ざっと挙げてもこれだけの利点があります。それは最終的にウィン・ウィンの状況をもたらすものです。

オーストラリアで農業をしている知人のひとりが、地元での売買がいかに個人ひとりの健康や幸せに影響を及ぼすことができるかについて、それを実証する「ビフォー・アンド・アフター」の経験談を話してくれました。ずっと農業に携わってきた人なのですが、以前はバナナとアボカドの2種類だけをスーパーマーケット専門に卸していました。なんとか生計を立てていたような状態で、買い手であるスーパーの言いなりでした。食べるには何ら問題のない果物が、商品としては短すぎ、大きくなりすぎ、あるいは丸みが足りないなどの理由で、当たり前のようにはねつけられていました。まるで農奴のようだと感じていたそうです。そうした中、地元の生産者が農産物を直接消費者に販売できるファーマーズマーケットが近くの町にできました。それから10年、彼の状況は一変しました。生産する農作物も2種類から20種類にと多角化し、そのおかげで有機栽培に完全に転換できました。財政的にも、大幅に改善しました。農場の環境もより健全なものとなり、顧客も必要な種類の果物や野菜を手頃な値段で購入しています。どのような天候でも長時間の労働が必要とされ、肉体的には大変な生活であることに変わりありませんが、彼の言葉を借りて言うならば、この何十年で初めて「人生と関わり合っている」そうです。「ファーマーズマーケットができてから、違う惑星にいるように感じる」と語っています。

この数年間に、世界各地で地産地消運動が芽生え、広がり始めてきました。たとえば米国では、ファーマーズマーケットの数が昨年だけで17%増えました。また、米国内でもっとも荒廃した都市のひとつであるデトロイトには現在、2,000を超えるコミュニティ菜園があります。こうした都市部での菜園のひとつを創業した若者も言っていました。「35年もこのコミュニティに暮らしているが、この事業を始めてから、会ったこともない人が自分のところに来て話しかけてくれる。周辺の人々とのつながりが復活し、本当の意味での共同体になれた」と。

ローカリゼーションは夢物語ではありません。すでに起こっていることです。そして励まされる点は、それが政府やメディアの助けもほとんどなく実現されていることです。地方銀行や信用金庫、パーマカルチャー、エコビレッジ、バイオリージョナル運動、トランジション・タウン、ヴィア・カンペシーナ(ちなみに、世界最大の社会運動のひとつ)、オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)、南米のブエン・ビビール(良い生活)運動、デクロワッサンス(脱成長)運動など、あらゆる形態、あらゆる規模のものがあります。また、真の進歩指標(Genuine Progress Indicator =GPI)やブータンの国民総幸福量(Gross National Happiness=GNH)の概念など、代替経済指標の作成に多くの努力が払われています。

ついに主流メディアさえも気付き、注目するようになったようです。タイム誌は2012年8月号で、いわゆる「ローカルノミクス(localnomics)」に関する長い記事を載せ、ニューヨークタイムズの最近の記事はマイクロソフトの元マネジャーの「将来はローカル」との発言を引用しています。

世界金融危機をきっかけに、「大企業はより効率的である」、「長距離の貿易は雇用を創出する」、「世界の食糧需要を満たすには産業規模の農業が必要」など、数十年もの間グローバル経済を支えてきた基本的前提-いや、むしろ神話- を、ますます多くの人が疑い始めています。大量失業や気候変動をはじめ、今日私たちが世界で直面しているもっとも困難な問題に関して、経済のローカリゼーションが解決策になるかもしれないと気づき始めています。

私たちが今取り組むべき仕事は、こうした一般市民の支持と善意の高まりを足がかりに、変革を目指す強力な運動を生み出していくことです。そのためには、ふたつの異なる領域で取り組むことが必要です。まず政治レベルにおいて、私たちは、政府に対し、地域に基盤を置く小規模企業を支援するよう圧力をかけ、多国籍企業は各国のルールに従うべきと主張することが必要です。そうすることによって初めて、今日の企業や銀行による実に有害な慣行を終わらせることができるのです。彼らは、労働条件がもっとも有利で、環境規制や社会規制がもっとも緩い国を探して世界を徘徊しながら、各国に脅威を与えて要求を押し付けているのが現状です。

単独でこうしたことに取り組む国があるとは思えません。けれども、いくつかの国がグループとなって、世界貿易機関から脱退し、これまでの条約に代わる、市民と環境のニーズを重視した新たな通商条約を策定することは十分に可能です。政治的に働きかけるのと同時に、書籍、記事、映画などを通じて、一般市民に対する啓発にも力を入れる必要があります。これは、いわゆる「経済リタラシー」の向上と、ローカル経済を強化するための様々な草の根の取り組みの支援の両方に役立つでしょう。

ローカリゼーション運動が本当に根付くためには、関心をもつ市民間の協力関係を構築していくことが必要です。環境保護活動家は長年にわたって汚染の危険性、絶滅の危機、迫り来る気候災害を警告してきました。一方、社会正義の活動家は、不平等や紛争の解決に取り組んできました。今こそ手を携え、エコロジカルな変革と社会的変革の運動の間の溝を埋める時です。ローカリゼーションは、共通のアジェンダを柱にひとつに結束するきっかけとなります。なぜなら、地球を救うために私たちがとるべき対策は、私たち自身を救い、健康を改善し、雇用を増大し、貧富の差を縮めるために必要とされる対策とまったく同じだからです。

素晴らしいことに、私たちが経済活動の規模を縮小するにつれて、幸福感は実際に増大するのです。なぜなら、もっとも深いレベルのローカリゼーションとは、つながりをつくること。人間同士、そして自然界との相互依存関係を取り戻すことだからです。そして、このつながりこそ、人間にとって最も必要なものなのです。

五井平和賞TOPに戻る