2013年度「五井平和賞」受賞記念講演

対話の文化を築く

セバスチャーノ・ダンブラ神父

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シルシラ・ダイアログ・ムーブメントを代表して、五井平和賞をいただけることを大変嬉しく、光栄に存じます。

この賞は、シルシラ・ダイアログ・ムーブメント(以下シルシラ)の精神を日々実践しているメンバー、そしてこれまでにシルシラのビジョンと使命のために命を捧げてくれた殉教者ともいえるメンバーたちに与えられたものだと思っています。

その中で、特に言及したいのが、カトリック・ミラノ外国宣教会の親しき友人、サルバトーレ・カルツェッダ神父です。1992年5月20日、彼はイスラム教徒とキリスト教徒の間の対話を促進するシルシラ・サマーコースの開催中に殺害されました。これは私たちの運動にとって非常に大きな出来事でした。先ほど、シルシラの活動紹介の映像の中にもあった「Padayon(パダヨン)―前へ進もう―」というスローガンにあるように、恐れず、決意を持って使命を果たしていこう。「対話の文化」を生き、社会に広めていこうという決意を新たにしたからです。

「対話」はしばしば戦略として捉えられますが、我々にとっての対話は「精神性」に基づいたものです。なぜなら対話は、行動、沈黙、そして調和における愛の表現だと考えるからです。我々は、分断と対立の中にあっても、個人の意識を変えることから生き方としての対話の文化を広めようとしています。とても狭き道ですが、これが平和に向けて、社会的な変化を起こすための最善の方法だと考えています。我々は神への愛、隣人への愛という、あらゆる宗教に共通する黄金律を指針としています。誠意をもって取り組み、愛、敬意、思いやりを表し続ければ、世界平和は実現可能だと呼びかけているのです。

ただ、世界には未だ暴力が満ちており、対話の文化を促進することはたやすいことではありません。

今日のように、平和を祝うことは非常に嬉しいのですが、私は、暴力に苦しんでいる世界の兄弟姉妹に思いを寄せざるを得ません。皆様にも、エジプト、シリア、パキスタン、パレスチナをはじめ、苦難にあえいでいる地域の人々にぜひ思いを寄せていただきたいと思います。貧しい人々や暴力の被害者の叫びは、我々が人類共通の善のためにさらなる協力をする必要性を思い起こさせてくれるのではないでしょうか。

どうして世界には、暴力が満ちているのでしょうか。どうして対立心がたやすく暴力へ発展してしまうのでしょうか。私は、特に今、フィリピン・ザンボアンガ市の人々の苦境に心を痛めています。シルシラの本拠地であるザンボアンガは美しい町で、キリスト教、イスラム教、その他の宗教、文化を持つ100万人が住んでいます。残念なことに、その美しい町は(2013年)9月9日、ミンダナオの革命グループと共鳴した反政府勢力によって襲撃され、何百人もの死傷者と何十万人もの避難者を出しました。避難者の中には家が焼き払われ、帰ろうにも家がない人々が大勢います。私は避難所において、援助を求める何千人もの姿を目の当たりにしました。シルシラの一部のグループも被害に遭いました。シルシラの指導者たちは、ザンボアンガでの対立は、宗教の違いから生じたものではないと伝えようとしました。しかし、宗教の違いを紛争の道具に利用する者がいるのです。

私の心配は、被害者の住宅の再建も然ることながら、シルシラをはじめ、対話と平和のために働いてきた多くの関係者がザンボアンガ市、ミンダナオ島で築き上げたキリスト教徒とイスラム教徒間の友情が、この対立によって壊されてしまったのではないかということです。私たちは、イスラム教徒とキリスト教徒に呼びかけ、対話の文化を築き直す作業を再開しなければなりません。対話の文化はダイナミックなものです。私たちそれぞれの文化や宗教、置かれた状況から始まり、恐怖や対立を超越していくものなのです。
対立などの外的な事象は、対話をより深く理解するために与えられた課題でしかありません。そして、4つの柱に基づく生き方としての対話の精神を深めるためのものなのです。その柱とは、「神との対話」、「自己との対話」、「他者との対話」、「大自然との対話」です。従って、これは精神の旅といえます。「対話の文化」という、新しい文化を生き、それを促進する人々の巡礼の旅です。この精神の旅をするには、私たちは皆それぞれの信仰に応じ、神聖なるものに向かって進まなければなりません。対話の文化を生きることによって、等しく尊厳と生きがいをもった人間共通の価値を理解することができるのです。この巡礼の旅は冒険でもあります。なぜなら、私たちはスタート地点はわかりますが、途中でいったい何が起こるかわからないからです。

35年前、私は人々を愛することだけを願い、フィリピンへ赴きました。当時は、このような経験をすることになるとは想像もしていませんでした。しかし、私は神に感謝しています。命を惜しまず、行動する勇気と、私たちは皆等しい尊厳を持つ人間であると信じる信念を与えてくださったからです。私は、一番いい生き方、つまり、暴力ではなく愛に生きて死んでいくという生き方をしようと思います。調和した世界は、すべての人に対する尊敬と愛によってのみ創られるのです。

世界は、私たちの愛を必要としています。私たち一人一人が、その一翼を担わなければなりません。対話に生き、平和を求め、進み続けなければならないのです。そして、あらゆる努力を通して、平和を見るために目を、平和を理解するために頭を、平和を愛するために心を浄める必要があります。平和に向けて働くために記憶を浄める必要があります。

仏陀の人生を読むと、若い頃に、父親の宮殿という守られた区域の外に老いや病、貧しさ、死という苦しみがあることを知り、宮殿の外へ出て修行を始めたと書かれています。こうした経験が、浄化と悟りに至る精神の旅の始まりだったのです。私たちも安心できる区域から出て、人生と苦悩の深い意味を発見しなければなりません。

私はカトリックの神父です。様々な精神世界の指導者を尊敬していますが、イエスの教えを信じています。イエスはすべての人を愛することを教えてくれました。私はこの精神で、1977年からフィリピンで宣教師としての伝道を始めました。初めはミンダナオ島のシオコンという町に行きました。当時、反政府勢力の武力闘争の結果、何千人という難民がいて、大部分がイスラム教徒でした。私は彼らを助けようと、彼らの村で共に暮らし始めました。この経験が、1984年にシルシラ・ダイアログ・ムーブメントを立ち上げるきっかけになりました。

人生の冒険を続けるには、精神的なモチベーションが必要です。ここで、個人的な忘れがたい経験をご紹介したいと思います。ある大変暑い日のことでした。私は椰子でできた小屋で祈りを終えて外に出ると、イスラム教徒の少女が「神父様、ここで何をしていたのですか」と尋ねてきました。私は微笑みながら「祈っていたのですよ」と答えると、少女は目を丸くして言いました。「キリスト教徒もお祈りするんだね」と。彼女は、イスラム教徒と闘うキリスト教徒の兵士しか見たことがないので、キリスト教徒の新しい一面に驚いたのです。

ここから次のような結論を申し上げたいと思います。私たちはみな兄弟姉妹です。暴力や対立の中にあっても、愛という使命を再発見しなければなりません。世界の指導者が平和の政策を打ち出すのを待つのではなく、私たち一人一人が、自分たちのいる場所でできることから始めなければならないということです。

私たちは、自らの中にある神聖なるものを祈りや瞑想を通して再発見し、すべての人の命に価値があり、尊重すべきであることを理解しなければなりません。そうすることによって、神との対話が可能になります。また、自己との対話を通じて自己に正直になり、自らの心を育てなければなりません。他者との対話の再発見もしなければなりません。対話は、家族や文化、国、宗教といった枠を超えなければなりません。人類共通の善のために力を合わせれば、世界を変えることができると信じる人々と手を携える必要があります。

そして、さらに私たちは創造物、大自然と対話し、その言葉を理解するよう努めなければなりません。先の日本の震災にはお見舞い申し上げたいと思います。フィリピンでも大変悲惨な台風がありました。私たちは、こうした体験から大自然とどのように対話をし、それを最良の形で守っていけばいいのか教訓を学んでいるのだと思います。

このように対話の文化とは、より良い未来に向けて人々を動かし、団結させる精神的な生き方なのです。世界に平和がありますように。そして我々一人一人が、心の平和は平和の中心であると信じ、自ら対話と平和の道具となれますように。

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