私たち人間は、互いに助け合うことを強く求める 「共同体の本能」 を持っている。しかし、20世紀末になると、この共同体としてまとまろうとする本能が、断片化と分離の増幅という形をとりつつある。民族紛争、民兵組織、特定利益団体、チャットルームなどが増えているのだ。私たちは、共同体という本能を、多様なコミュニティが織りなすグローバルな文化を創造するものではなく、他と分離し自己防衛することに用いている。私たちは、社会の他の部分から自分たちを守るために、自分と最も似ている人たちを探している。このような分離した道では、住むに値する未来にたどり着けないことは明白だ。私たちの大きな課題は、コミュニティに対する理解を見直し、現在のような閉鎖的な保護主義から、地球共同体としての開放性と受容へと移行することである。
このような特殊な小集団が乱立する中、私たちは、多様性を通して他者とつながる方法を知っているコミュニティや長期にわたって持続可能な関係を作り出すことに成功しているコミュニティに囲まれて生きている。それが、生態系と呼ばれる関係性の網の目のような共同体だ。自然界のいたるところで、多様な個性を持つ個体が、個とシステム全体を支える形で共生している。このようなシステムを紡ぎ出す共生の過程で、新たな能力や才能が生まれる。これらのシステムは、共同体という本能が人間特有のものではなく、微生物から最も複雑な種に至るまで、あらゆる生命に存在することを教えてくれている。また、個体が生態系を織り成す様子は、非常に逆説的であることも教えてくれる。このパラドックスは、私たち人間にとって偉大な師となり得る。
生命は個体として形成されるとすぐに、関係性のシステムをつくろうと接触を始める。個の自由を求める絶対的な欲求と、関係性を求める明白な欲求という、一見相反する二つの力から、このような生命システムが生まれる。人間社会では、この二つの力の間の葛藤に悩まされる。しかし、自然界には、この矛盾がうまく機能している例が数多く存在し、そこから驚くべき洞察を得ることができる。所属性を保ちつつ多様性を受け入れる、しなやかで適応力のあるコミュニティを作ることは可能なのだ。
生命が第一に必要とするものは、自らを創造する自由である。生物学的な生命の定義の一つに、「自らを創造する能力を持つものは生きている」というものがある。生命は、この原始的な創造する自由、すなわち自己決定能力から始まる。個体は、他と区別する境界線を持って自らを創造する。どの個体も、どの種も、ここでどう生きるか、それぞれに示した解の結果なのだ。この自由が、この星の限りない多様性を生み出している。
個体は、この世界で生きていくために、絶えず自由を行使している。何に注目し、何に意味を見出すか、そして、それに対してどのように反応し、変化するのもしないも自由である。この自由は、生命の究極の一部で、チリの2人の生物学者、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラは、「生命システムに指示を与えることはできない。できるのは注意を引くことを願うことくらいだ」と言っている。生命は、自己決定が存在の根源であるため、ボスではなく、パートナーしか受け入れない。
生命が第二に必要とするものは、自らを個から駆り立て、共同体を探すことである。生命はシステムを求めるものであり、関係性の中にいること、他者とつながっていることが必要だ。生物学者のリン・マーグリスは、独立性は生物界を説明する概念ではないと指摘している。個体は単一では生きていけない。どんな関係性が必要か、あるいは可能なのかを発見するために、絶えず外界へと出ていく。
進化は、適者生存のような過酷で孤独な力学からではなく、こうした新しい関係性から進展する。関係性を無視し、貪欲で強欲に行動する種は、滅びるだけだ。進化の記録を見ると、時間の経過とともに増えていくのは協力関係である。この協力は、個は他がなくては存在できない、個が完全に自己実現できるのは関係性の中だけである、という基本認識から生み出されるものだ。共同体という本能は、生命のいたるところに存在する。
システムが形成されると、利己主義と関係性の矛盾が明確になる。個体は、自らを支えるために、どのように共存するかを模索する。それでも、これらの個体は、隣接する他の個体や周囲の環境を鋭敏に意識している。彼らは、自己保存の盲目的な本能から行動していたり、他者の要求に受け身で行動しているわけではない。つまり、他者や環境から変化を強制されることはないが、彼らが変化を選択するとき、「他者」は彼らの個々の決断に大きな影響を与える。個体は自由性を行使するとき、コミュニティのことを意識しているのだ。
ある個体が変化すると、その周りの個体たちはそれに気づき、自分たちがどのように対応するかを決める。時が経つにつれて、個体はこの共進化のプロセスの中に入り込み、自己と他者、あるいは自己と環境の境界を区別することができなくなる。隣接する全てのものの間で情報とエネルギーが絶えず交換され、システムのあらゆる場所で変化と適応のプロセスが継続的に行われる。そして、もう一つの矛盾は、こうした個々の変化こそが、システム全体の健全性と安定性に寄与しているということだ。
このような共進化のプロセスから形成された新しいシステムは、個体が孤立していたときには得られなかったレベルの安定性と保護機能を提供する。そして、個体とシステム全体に新しい能力が生まれる。システムを構成するメンバーは、他者との関係を構築していく中で、新しい才能や新しい能力を身につけていく。個体もシステムも、スキルと複雑さを増していく。コミュニティは、時間の経過とともに、生命の能力と複雑さを増していくのだ。
このような複雑な関係性のネットワークは、自己と他者について考える上で非常に新しい可能性を提供する。境界線という概念そのものが大きく変化する。私たちは通常、境界線を、何が内側で何が外側かを定義する手段だと考えている。しかし、生命システムにおいては全く異なる。境界線は、新しい関係が生まれる出会いの場所であり、個体が他の個体に対応するための重要な交換と成長の場なのである。つながりが急増し、システムが張り巡らされると、境界を防御として解釈することは難しくなり、また、ある個体の輪郭を示す目印として解釈することもできなくなる。
人間社会も、他の生物と何ら変わりはない。私たちは、自己決定の欲求と関係性の欲求という、同じ二つの欲求でコミュニティを形成している。しかし、現代社会では、この二つの欲求が本来持っている矛盾を受け入れることが難しくなっている。私たちは、一方の欲求を満たすために、もう一方の欲求を犠牲にしてしまう。共同体に属することの代償として、個人の自律性が失われることが非常に多い。共同体は、特定の基準、教義、伝統を中心に形成される。先住民によく見られるように、個人を共同体の能力に貢献するユニークな存在として尊重するのではなく、共同体が多様な才能を必要としていることを認識するのでもなく、個人は共同体の「より大きな善」に奉仕するために、適合すること、従うことを要求される。受け入れられるためには、個人の自己表現の放棄という高い代償を払わなければならない。個人の自律性が失われると、多様性が失われるだけでなく、管理上の大きな問題にもなる。コミュニティは、政策、基準、原則を際限なく増やし、個人をコントロールする新たな方法にますます多くのエネルギーを費やすようになる。
このような適合性のために払う代償は共同体を疲弊させ、メンバーにとっては文字通り命取りとなる。生命には、一つではなく、二つの大きな欲求を尊重することが必要なのである。共同体の一員であろうとするとき、私たちは自己表現の欲求を真に放棄することはできない。最も制限の多いコミュニティでは、自由への欲求が周辺から忍び寄るか、あるいは私たちをコミュニティから脱退させる。外見や服装を変え、自分たちの特殊なあり方を支持する派閥をつくり、分裂したグループを結成し、物理的なコミュニティから離れ、原則をめぐって意見を対立させ、相いれない分裂をひき起こす。これらの行動は、他者からの支持を切望しながらも、自己創造への欲求を止められないことを示している。
特に西洋では、あまりにも帰属することの代償が大きいことから、個人の自由を守るために孤立主義へと向かいがちだ。私たちは、自分自身の人生を歩むために、一人で生きる人生を選ぶ。他者との関係の中でしか発見できない有意義な人生をあきらめ、少なくとも自分だけのものだと思える無意味な人生を選ぶのだ。アフリカの諺に「一人で、私は多くの驚くべきことを見てきたが、どれも真実ではない」というものがある。孤立を追求することで見えてくるのは、深く空虚な場所に行き着き、孤独と人生の虚しさに打ちのめされる恐ろしい代償だ。
人生と駆け引きをして、二つの大きな欲求のうち、どちらか一方だけを満たそうとすると、本当の意味での無気力を感じる結果になるようだ。私たちは矛盾の中で生きなければならない。人生は私たちにどちらか一方を選ぶことを許さない。私たちのコミュニティは、コミュニティの健全性と回復力を高める手段として、個人の自由を支えなければならない。そして、個人は、自分自身の健康と回復力を高める手段として、隣人を認め、彼らとの関係を望む選択をしなければならない。
一見すると、インターネットは新しいコミュニティの源であるかのように見えるが、これらのグループは、コミュニティの矛盾を受け入れていない。電子的につながった世界の大きな可能性は、私たちを互いに孤立させる、より強固な境界を作り出すことに利用されている。ウェブを通じて、私たちは自分と全く同じような人たちとの関係を求めることができる。私たちは共同体という本能に応えてはいるが、自分たちに似た非常に特殊化したグループや、社会の他の部分からの分離を強化するグループを形成している。私たちは、自分のユニークさではなく、同じであることだけを求められている。互いの才能を必要としているという事実に気づくことも、ましてやそれを讃え合うことも求められていない。多様性の不快感に直面した瞬間、私たちはコンピュータの電源を切ればいい。このような自分と同じような人たちの特殊なネットワークは、独裁的な原則に基づいた組織と同様に、個を破壊することにつながる。どちらのタイプのグループでも、私たちは、異なるままの他者と関係を保ちながら、自分の個人主義を探求することを求められてはいないし、自由と共同体の矛盾に敬意を払っていない。
人間の共同体では、共同体の形や構造にこだわるのではなく、共同体の中心で起こっていることに集中することで、自由とつながりの状態が活発に保たれている。何が私たちを呼び寄せたのか? 一人ではできないことでも、一緒にならできると信じていたことは何だったのか? 他者とつながることで、何を生み出そうとしたのだろうか? これらの問いは、私たちの個性と関係性への欲求の両方を呼び起こす。このような問いを持ち続け、ポリシーや原則によって関係を縛ろうとしなければ、私たちは矛盾の中で繁栄するコミュニティを創り出すことができるのだ。
私たちの見解では、コミュニティの中心でその目的を明確にすることで、そのコミュニティ内の関係の性質全体が変化する。このようなコミュニティでは、所属する条件として、人々に自由を放棄することを求めない。行動や考えを規制しようとせず、教条的で独裁的になることを避け、共に創り上げようとするものに集中することで多様性が花開く。共生とは、特定の行動に関する信念を共有することではなく、目的意識を共有することによって定義される。その目的意識は個人を惹きつけるが、個性を捨てる必要はない。共通のアイデンティティにとらわれることなく、共に働くことの意味を中心に据えることで、帰属意識と個性との間の緊張を、エネルギッシュでしなやかなコミュニティへと変えていけるのである。
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マーガレット・J・ウィートリー(Margaret J. Wheatley)
教育学博士。ハーバード大学で組織行動学と組織変革を学び博士号を取得。組織に希望と健全さを取り戻すことをテーマに執筆、教育、講演を行う。