第30回講演録

坂東元

旭川市旭山動物園園長、獣医師

テーマ

伝えるのはいのちの輝き

プロフィール

1961年旭川市生まれ。86年酪農学園大学酪農学部獣医学修士課程修了後、同年5月旭川市旭山動物園に就職。飼育展示係長、副園長を経て2009年園長に就任。これまでにマリンウェイ(円柱水槽)や大水槽で自由に泳ぐアザラシの姿が観察できる「あざらし館」等々、動物たちのありのままの姿を来場者に見てもらえるような「行動展示」を考案、全ての園内施設のデザインを担当するほか、数々のアイデアを実現している。また「食べる姿」を通して、動物本来の能力を見る「もぐもぐタイム」等のソフト面でも中心となって具体化、システム化を図る。著書には『動物と向きあって生きる』、『夢の動物園』(共に角川学芸出版)ほか。

講演概要

「僕たち飼育展示係の仕事・目標は、来園者に動物たちのすごさやかけがえのなさと、たくさんの命に囲まれている居心地の良さを感じてもらうことだと考えています。旭山動物園には“珍しい動物”はいません。どんな動物も等しく自然の中で生き、優れた能力を持つ素晴らしい生き物たちです。絶滅危惧種、希少種だから価値があるわけではありません。むしろ普通の動物たちのありのままの素晴らしさを伝えることが、未来を考えるときに大切なことだと思っています。

人間には、大切なものを守る習性があります。動物たちの“ありのままの姿”に素晴らしさを感じ、そこに価値を見つけ、自然の大切さに深く気づくことができれば、今とは違う未来がきっと見えてくるはずです。ヒトだけではなく、地球上全ての生き物が共生できる未来のために動物園を通じてできることは何かをお話ししたいと思います」

講演録

旭山動物園は、今でこそ、年間数百万人が訪れる動物園として全国的に知られるようになりましたが、私が就職した20年以上前は、本当にボロボロで、臭い、面白くない、かわいそう、という感想しか聞こえない、あと数年で潰れると言われていた動物園でした。私も獣医を募集しているからという理由で就職しただけで、動物園に対する関心は全くなく、むしろ、あんな狭いところに動物を閉じ込めておく理由が理解できないと思っているタイプでした。しかし、動物園には関わって初めて知ることのできる動物たちの素晴らしさがありました。

いのちと向き合う


私が就職した時、1匹の老いたメスのオオカミがいました。膀胱に小さな石が詰まっておしっこが出なくなってしまった。当時は、手術できる施設がなかったので点滴で石を溶かす治療方法を選びました。ただ、彼女が起きていると点滴を打てないので、麻酔の吹き矢をしてから治療を開始したところ、4日目にはおしっこが少し出るようになり、私は自分の技術に手応えを感じました。

しかし、飼育されているとはいえ、オオカミは野性動物ですから人間を信用することは絶対にしません。その距離感の中で、麻酔で意識を失うことはオオカミにとっては死を意味します。想像を超える恐怖だったのでしょう。そのうち、私の姿を見ただけで震えだし、吹き矢の先が自分に向けられると泡を吹いて倒れるようになり、約1週間後、吹き矢が当たったショックで死んでしまいました。その時、自分は今まで何をしていたのか、何のための獣医なのかと考えました。彼女は12年間、狭い檻の中でもオオカミらしく生かしてあげたいという飼育員の愛情を受けて育ちました。しかし、最後の1週間は苦痛だけで終わってしまいました。

それまで私は、治療をして長生きさせることが命を大切にする基準だと思っていました。しかし、延命治療は人間側の概念であって、動物たちは自分に降りかかってきた痛みや苦しみを受け入れる生き方をします。何かを恨んだ目で死ぬ動物を私は見たことがありません。私は、この時、相手の立場からものを見ることの大切さを思い知らされました。こういう動物の生き方に関わっていくと、生きる純粋さ、気高さ、尊さを感じるようになります。面白い、面白くない、珍しい、珍しくない、かわいい、かわいくないという薄っぺらでエゴイスティックな感情だけで動物を見続けたり、関わったりするべきではないのだということがわかってきます。

私は動物園の中で、日本や世界で初めてと言われる発想を具体化してきましたが、これまでの動物園は見る側、見せる側、つまり人間の理屈だけで考えて、そこで一生を過ごす動物のことを全く考えていなかっただけです。私は、動物園の存在を肯定するわけではありませんが、命を預かったことに間違いはないのだから、動物側の目線に立って、どうすれば閉じられた環境で動物らしい一生を過ごさせてあげられるかという発想で組み立てていきました。彼らは何も要求してこないので、考えるのは非常に難しいことです。でも、お客さんに感動してほしいのは、動物が芸やショーをする姿ではなく、ありのままの日常の姿に美しさを感じて欲しい、僕らが感じ続けているそのことに共感してほしいと思ってやってきました。

数年前まで旭山動物園は、予算編成の時期になる度に、来年こそは廃園だという噂が流れました。でも予算がないからなくなるのではなくて、動物園によって、動物がつまらないものになったからなくなることだけは避けたいという思いがありました。

どうも日本の動物園や水族館は、パンダやコアラやラッコなど、人気動物を作りあげる風潮があります。ラッコが大ブームだった当時のこと、遠足で来た子どもたちがアザラシを見ていました。「あの模様は毛なの? 皮膚なの? 耳はどこ?」など、不思議がいっぱいなのでアザラシをずっと見ていられます。でも大人の先生は、タイミングを見て次へ行かせたがります。子どもが渋ると、「あれはラッコじゃないよ。ただのアザラシだよ」と言うんです。それを聞いた子どもは、「なんだ、ただのアザラシか」となります。私は本当に悔しくて、先生を呼びとめ、「今、ただのアザラシって言ったけど、どこがただなのか説明してくれ」と詰め寄ったことがあります(笑)。子どもが素晴らしいと思うものを、大人の価値観で壊さないでほしいものです。

でも先生だけを責めることもできません。ただのアザラシにしたのは、命を預かっている側がそういう見せ方をし続けた結果です。いつか水族館を見返そうと思いました。それがエネルギーになって、アザラシ館のマリンウェイという水槽ができたのかもしれません(笑)。

オランウータンの子育て


動物園では、繁殖活動もサポートします。2001年にオランウータンで雌のリアンにペアリングをしたのですが、オランウータンの成獣は、雌の体重が40~50kgに対して、雄は100kg以上という対格差があるので、雄が雌を気に入らなかった場合は簡単に殺してしまう危険性があり、ペアリングがすごく難しいとされています。
動物は、今いる場所が次の世代を残す場所にふさわしくなければ繁殖活動をしません。よく雄と雌を飼えば勝手に繁殖するんでしょうと思われるのですが、そう簡単ではありません。しかし、リアンは成獣同士のペアリングが成功しました。決め手は環境です。旭山動物園のオランウータン舎は、高い木や綱渡りができるような立体的な構造で体が自由に動かせていたから、気持ちに余裕があり、他の動物園から来た雄のオランウータンより、気持ちの上で優位だったわけです。

リアンは、まもなく妊娠、出産しました。オランウータンの子育ては基本的に母親だけが行います。母親は出産後、子どもの手が離れる4~5年は排卵が止まるので、愛情を込めてじっくり育てていきます。リアンは、母親が弟や妹を育てる様子を見ずに旭山動物園に来たので、初めは自分の子どもとどう接していいかわかりませんでした。でも、母性を育てるには、抱っこして母乳を吸わせるのが一番。赤ちゃんを乳首に吸い付ける環境を作り、リアンは母になることができました。育児の中で抱っこをするのはサルの仲間だけです。子どもは母親の体温や心臓の鼓動を感じて、お母さんの目線から景色を見て育っていきます。人間も抱っこして欲しいと言ったら小学生になってもしてあげたほうがいいと思います。

また、オランウータンがジャングルで何千種類もある木の実から食べて良いものを選べるのは、母親が食べている口の中に手を突っ込んで、手についたものを舐めて味を覚えるからです。まさに、おふくろの味が生きる知恵になっているわけです。

人間社会は、非常に便利な時代になりました。しかし、母親が一生懸命作った煮物よりカップラーメンの方が美味しいという子どもが多いのは、残念なことです。それは、家に安心できる場所がないことにもつながるのではないでしょうか。今回の震災を契機に、本当の豊かさや絆、幸せ感をどこに見つけるのか、今一度考える、組み立て直すべき時が来ているような気がします。

動物園が預かっているのは「いのち」。
だから「死」をはっきり伝える


昔、日本の飼育下で最年長のカンゾーという雄で30歳のホッキョクグマがいました。とても威厳のある大きな熊でしたが、年老いて内蔵機能の衰えから新陳代謝が低下し、腐敗した老廃物にウジがたかるほどになってしまいました。私たちは、彼らしい尊厳を持った死とは何か、どういう終わり方をさせてあげられるのか考えました。こういう時、安楽死も選択肢に入れます。絶対にやらない動物園もあるので、これは旭山動物園の考え方です。カンゾーは、間もなく自然死を迎えられましたが、目も開かない、耳も聞こえないのに、死ぬ前日まで外へ出せという動作をしていました。生きるというのは、生きているから生きるのであって、科学や医学や理屈ではないことをつくづく感じました。そして、どの生き物も必ず命を終えます。その死に対する、旭山動物園独自のやり方の一つに、動物の死を伝えています。動物園は楽しい場所というイメージなので、動物の赤ちゃんが生まれたり、新しい動物がやって来ることは伝えますが、珍しい動物以外の死を公表することはタブーでした。

でも、私たちは、その動物の歴史や最期を知っているわけです。生だけでなく、死もきちんと伝えようと、5年程前から喪中と書かれた紙を檻の前に貼り始めました。お客さんからは、なぜわざわざ貼るのかと苦情が来ますし、関係者の間でも賛否が激論されました。でも私たちが預かっているのは命です。人間のエゴで作った動物園という狭い場所に命を閉じ込め、楽しませてもらったのですから、少なくともその命、その死に対してありがとうと思わなければいけないですよね。だから私たちは、この死を伝えることを止める気はありません。伝えなければいけない大事なことですから。

今は、老いていく過程が見えづらい社会です。その中で、どうやって命を繋いでいくのか考えなければいけないと思います。そういう意味でも、動物園は単発で見に来るところではなく、命を見続ける役割のある場所だと思っています。例えばキリンが生きられるのは約20年。幼稚園の頃に見たキリンは、社会人になる頃には亡くなります。成長するにつれ、キリンの見え方はどんどん変わっていくでしょう。その中である日、命がいなくなってしまうことを心で感じられる場が動物園だと思います。ですから、身近な動物園があれば是非、通い続けてみてください。そこで、命やいろいろな生き物を大切に思う気持ちを感じていただきたいと思います。そういう気持ちを少しでも持つことができれば日常は変わるでしょうし、未来も必ず変わると思います。