【開催報告】「核なき世界への道」について考えるシンポジウム

9月19日(木)、カザフスタン共和国大使館との共催により、日本・カザフスタン国際会議「核なき世界への道」が国連大学のウ・タント国際会議場において開催されました。

カザフスタンのセミパラチンスク核実験場は、旧ソ連時代の1949年から40年に亘って核実験が実施され、独立後の1991年8月29日に閉鎖(*)。しかし、核実験の影響による被害に、今もなお多くの人が苦しんでいます。最初の実験から70年を記念し、カザフスタン共和国初代大統領図書館館長らが来日し、元国連事務次長の明石康氏らと登壇。9月21日の国際平和デーを前に核なき世界について考えました。

会場のロビーには、同図書館の所蔵品や被曝二世の同国の画家、カリプベク・クユコフ氏の作品が展示され、参加者の関心を集めました。

セミパラチンスク核実験場の閉鎖を記念し、8月29日は国連「核実験に反対する国際デー」に定められています。

核実験廃止に貢献した日本とカザフスタン

シンポジウムは、スピーカーの話を中心に、この日のためにカザフスタン国営放送局が制作したビデオ上映を挟みながら進行され、イエルラン・バウダルベック・コジャタエフ駐日カザフスタン共和国大使による歓迎の挨拶で始まりました。

「世界で最も核兵器の被害を受けた日本とカザフスタンは、核兵器のない世界の実現を積極的に提唱してきました」と語り、カザフスタン共和国のヌルスルタン・ナザルバエフ初代大統領が2016年11月の来日時に国会演説で世界の指導者に広島・長崎への訪問を呼びかけ、大統領自身も広島を訪問したことと共に、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効へ向けた日本との積極的な取り組みなどに触れました。そして、「核兵器こそが、あらゆる国と人類にとって最も深刻な脅威だという認識は世界で高まっています。核兵器が世界から完全になくなった時、世界の安全と未来の保障は達成されるのです」と、結びました。

続いて、長年、国際社会で軍縮に尽力してきた元国連事務次長の明石康氏のスピーチへ移りました。「核なき世界は、我々の理想です。核兵器の廃絶に向けて具体的にどのようなことが必要かを考えた時、核兵器を常時発射可能状態に置いた他国への照準や警戒態勢の解除、核弾頭の運搬手段の制限、情報の透明性向上など、多くのことがあげられます。日本は、米国の核の傘の下にあるとはいえ、国連総会の決議で核兵器の廃絶に向けて提案をしてきたことは事実です。カザフスタンはじめ旧ソ連諸国の非核化に向けた努力に協力すると共に、CTBT成立のために長い間、積極的な役割を果たしてきたことも否定できません。

一方で、北朝鮮との核に関する交渉、インド、パキスタン、イランの核保有の問題、また9・11以降、核とテロの関係という、これまでになかった難問を前に、核なき世界への回答を見つけることは至難の業です。しかしここで、〝Trust but verify(トラスト・バット・ベリファイ)〟─互いに信頼せよ、されど検証せよ─。米ソ冷戦終結の功労者の一人、レーガン元大統領の言葉が思い出されます。私たちは真剣かつ冷静に、人道的な見地に立ち、核兵器の脅威に立ち向かわなければなりません。そのために考え続け、努力を続けるしかないのだと思っております」

元国連事務次長 明石康氏

イエルラン・バウダルベック・コジャタエフ カザフスタン大使

15分ほどの短い時間で伝えられていく濃密なメッセージ。3人目は、カザフスタン共和国初代大統領図書館館長、アメルハン・ラキムジャノフ氏です。「セミパラチンスク核実験場が閉鎖されるまでの約40年間、カザフスタンの草原には連日爆発音が轟き、被害者は150万人におよび、その威力は広島・長崎に投下された原爆の2500倍とも言われています。ナザルバエフ初代大統領は核実験廃絶を望む国民の意志を支えに、この死をもたらす恐ろしい連鎖を断ち切ったのです。核軍縮と不拡散への積極的な決断は、ロシアのノヴァヤゼムリャ、フランスのムルロア環礁、アメリカのネバダなど多くの核実験場閉鎖の端緒となりました。

私は、1998年に広島を訪ねた時、悲劇を乗り越え、全く新しい平和的な都市を建設した日本人の強い心に大きな感銘を受けました。カザフスタンも歴史を乗り越え、未来を目指しております。カザフスタンでは、核なき世界に向けて重要なのは、グローバルな反核運動をつくり出すことだと考えており、2017年に提唱された核実験永久廃止と核兵器完全廃絶を呼びかける「AアトムTOM」(Abolish(アボリッシュ)=廃止する、Test(テスト)=実験、Our Mission(アワ・ミッション)=私たちの使命)と呼ばれるプロジェクトもその一つです。ナザルバエフ初代大統領の言葉を借りて申し上げます。『世界は私たち一人一人が責任を担っている。核兵器ではなく国際協力こそが、国家の安全保障を可能にしてくれるのです』」

シンポジウムのテーマと同名のドキュメンタリービデオの上映を挟んだ後、ATOMプロジェクトの大使を務めるカリプベク・クユコフ氏のスピーチへ。核実験の影響で生まれつき両腕がないクユコフ氏は、カザフスタンの著名な画家であり、絵筆を口で持って描く作品を通じて、核実験廃絶を訴えています。

被爆二世の画家 カリプベク・クユコフ氏

アメルハン・ラキムジャノフ初代大統領図書館館長

核実験場の閉鎖は市民の思いから始まった

「私が生まれたのは、セミパラチンスクから100キロほど離れた小さな村です。核実験の非常に大きな影響を受けたのがこの100キロ圏内の地域でした。核実験の爆発が起こると、部屋のシャンデリアは大きく揺れ、外へ避難する私たちの側を大きな波が通っていくような振動を感じました。カザフ人のみならず、カザフスタンに暮らす100以上の民族が大量の放射能を浴び、被害を受けました。そして、カラガンダ州など、セミパラチンスク核実験場を囲む三つの州はもとより、風の流れによりさらに被害は拡大していきました。

この状況に声を上げたのが、詩人のオルジャス・スレイメノフであり、核実験に反対する「ネバダ・セミパラチンスク運動」の始まりでした。私は、ATOMプロジェクトの大使として活動し、核実験に反対する署名をオンラインで世界中から集めています。また、国連では世界各国の首脳に向けて核実験反対とCTBTに未調印の国には調印をしてほしいと訴えました。カザフスタンと日本は、世界に対し、声を発し続けるべきだと思っています。私たちが経験した悲劇が二度と繰り返されないために」

最後に、長崎市東京事務所所長の光武恒人氏より田上富久市長のメッセージが代読されました。 「1945年8月9日、午前11時2分、長崎の街は一発の原子爆弾により、7万4千人の尊い命が奪われ、7万5千人の方々が負傷し、壊滅的な被害を受けました。 この惨禍を経験した長崎市は、長崎を最後の被爆地にと、切実な思いから核兵器のない世界の実現を訴え続けてまいりました。現在もなお、世界には1万4000発の核弾頭が存在し、核兵器を巡る国際情勢は予断を許さない状況にあります。

今こそ、私たち市民社会がさらに力を合わせ、核兵器のない世界の実現に向けて声を上げていかなければなりません。カザフスタン共和国は、核兵器を全面的に禁止する国際条約である核兵器禁止条約に、去る8月29日に批准されました。長崎市と志を同じくする皆様方のお力添えをいただきながら、核兵器のない世界の実現を訴え、平和への道を歩み続けていく所存です。今日の会議で、皆様が核兵器廃絶への思いを改めて共有することで、平和を発信していく新たな一歩となることを期待します」

多様な登壇者のスピーチが終わり、西園寺裕夫理事長から、「核の問題が全ての人々の一層の関心事となり、非核に向けた国と民間の両レベルでの取り組みが平和への貢献になる」と、本会を締めくくる挨拶がなされ、閉会となりました。

両国の経済面の協力関係は知っていましたが、カザフスタンの核実験場のことは知りませんでした。核の脅威を経験した国の一人としてこのようなイベントは大切だと思いました。

ナザルバエフ初代大統領の英断の原動力が市民の思いだったと聞き、改めて市民の行動の重要性を知らされました。核なき世界は人類の悲願、一市民として、今日の話を周りに伝えたいと思います。

閉会挨拶をする 西園寺裕夫理事長

長崎市東京事務所所長 光武恒人氏

展示の模様

ウ・タントホール入口に展示されたカリプベク・クユコフさんの作品の数々。豊かな色彩が特徴的です。

国連大学2階には、カザフスタン共和国初代大統領図書館の所蔵品が展示されました。
またカリプベク・クユコフ氏が推進するATOMプロジェクトに署名できるコーナーも設置されました。

参加者の声

両国の経済面の協力関係は知っていましたが、カザフスタンの核実験場のことは知りませんでした。核の脅威を経験した国の一人としてこのようなイベントは大切だと思いました。
ナザルバエフ初代大統領の英断の原動力が市民の思いだったと聞き、改めて市民の行動の重要性を知らされました。核なき世界は人類の悲願、一市民として、今日の話を周りに伝えたいと思います。

 

主催:カザフスタン共和国大使館
共催:五井平和財団、カザフスタン共和国初代大統領図書館
後援:カザフスタン共和国初代大統領財団、国際連合広報センター