【Goi Peace Pod】コミュニティは孤独から始まる

私は時々、人生をたくさんのスポークが付いた大きな荷馬車の車輪のように捉えることがある。真ん中にあるのがハブ(中心軸)だ。私たちの教会では、しばしば、縁の周りを走り回って、すべての人に手を差し伸べようとしているようだ。しかし深い叡智は、「ハブから始めなさい。そうすれば、すべてのスポークとつながることができ、そんなに速く走る必要はなくなる 」と教えてくれる。

ハブ、即ち神の慈悲と交わるところから、私たちはコミュニティへと導かれるのだ。驚くべきことに孤独は常に私たちをコミュニティへと誘う。孤独の中で、あなたは自分が人類の家族の一員であることに気づき、一緒に力を合わせたいと願うのである。

コミュニティと言っても、正式な共同体のことではない。家族、友だち、教会、依存症者の自助グループ、祈りのグループなどのことだ。コミュニティとは組織ではなく、生き方である。私たちはみな宇宙(神)に愛されし子ども達であるという真理を一緒に宣言したい仲間と集まるのだ。

コミュニティは簡単ではない。かつて「コミュニティとは、最も一緒に暮らしたくない人が常に住んでいる場所である」と言った人がいる。イエスの12使徒のコミュニティでは、最後の名前はイエスを裏切ろうとしていた人の名前であった。その人物は常にあなたのコミュニティのどこかにいる。他の人から見れば、その人物はあなたかも知れない。

私は「デイブレイク」と呼ばれるコミュニティに住んでいる。世界中に100以上あるコミュニティの一つで、知的障害のある子どもや大人たちと、彼らを支援する人たちが一緒に暮らし、日々の生活のあらゆる面を共にしている。ネイザンも、ジャネットも、他の人たちも、コミュニティとして一緒に暮らすことがどんなに大変で、どんなに美しいかを知っている。

なぜ孤独をまず知ることがそんなに重要なのか? もし私たちが、神に無条件に愛されていることを知らなければ、コミュニティの誰かがそう感じさせてくれることを期待する。でも、それは不可能だ。コミュニティとは、「私もあなたも寂しい」と言って、寂しい者同士が一緒になることではない。独りの者が独りの者と手を取り合い、「私もあなたも愛されし者、共に家族になろう」と言う関係性である。仲が良い時は幸せだが、愛をあまり感じられないときは辛いものだ。しかし、私たちは誠実でいることができる。私たちは一緒に家を築き、思いやりを表す場をつくることができるのだ。

コミュニティという規律の中には、赦しと祝福という規律がある。赦しと祝福こそが、結婚であれ、友情であれ、その他のあらゆる形のコミュニティを形作るものなのだ。

赦しとは何か? 赦しとは、相手が神でないことを赦すことである。「あなたが私を愛していることは知っているが、無条件に私を愛する必要はない。そんなことができる人間はいない」というのが赦しである。

私たちは皆、傷や多くの痛みを抱えている。あらゆる成功の陰に潜む孤独感、賞賛の陰に潜む無力感、人から「素晴らしい」と言われても拭うことができない無価値感、それこそが時に私たちを他人にすがりつかせ、与えられない愛情を期待させるのだ。

そして、その期待が裏切られると、私たちは悪魔になる。「私を愛して!」と言いながら、いつの間にか暴力的になったり、要求したり、人を操ったりするようになる。たまにではなく、人生の一瞬一瞬を赦し合うことがとても大切なのである。朝食を食べる前にだって、人を赦す機会があったはずだ。

わずかな愛しか与えられなかったことに対して、その人を赦すのは難しい修行だ。自分がわずかな愛しか与えることができないことに対して、他人に赦しを請い続けることも、また辛い修行だ。子どもたち、妻や夫、友人たちに対して、自分が与えたいと思うすべてを与えられないと伝えるのは苦しい。それでも、私たちが寛容で、相手に求めることなく一緒になった時、そこからコミュニティが生まれ始めるのだ。

ここで、コミュニティの第二の規律である祝福の時が訪れるのである。神だけが与えることのできるものを他人から与えられないことを赦せれば、その人の素晴らしさを祝うことができる。そうすれば、その人からの愛を、神の普遍的な愛が投影されたものとして見ることができる。私たちはそれを祝福し、「ああ、何て美しい!」と言えるのだ。

私たちのコミュニティ「デイブレイク」では、赦しの実践をたくさん重ねなければならない。しかし、その中に祝福が訪れる。社会から疎外されていると思われがちな人々の美しさを見出すのだ。赦しと祝福によって、コミュニティは他の人々の素晴らしさを呼び覚まし、引き出し、「あなたは愛されている」と伝える場となる。

他人の素晴らしさを祝うことは、「ピアノが上手ね」とか「歌が上手ね」のようなちょっとした誉め言葉を贈り合うことではない。それは単なるタレントショーに過ぎない。

お互いの素晴らしさを称え合うことは、お互いの人間性を受け入れ合うことを意味する。日常生活の当たり前の姿を認め合うことで、傷を負っているように見える人が、突如として生き生きと輝いて見えることがある。なぜなら、彼らを通して自分の姿を垣間見るからである。

私が言いたいのは、この世界では、とても多くの人が自己否定という重荷を背負って生きているということだ。「私はダメだ。役立たずだ。私にお金がなければ、誰も話しかけてもこない。重要な仕事に就いていなければ、声もかけてこない。他の人たちに影響を与える力がなければ、愛されることすらなかっただろう」というように。

成功し、高く評価されるキャリアの下には、自分自身のことをあまりよく思えず、恐れに支配された人が住んでいることがある。コミュニティでは、お互いの弱さを認め、赦し合い、素晴らしさを称え合えるような関係性が生まれる。

「デイブレイク」に来てから、私は多くのことを学んだ。私の本当の素晴らしさは、本を書くことでも、大学に行ったことでもない。私の本当の素晴らしさは、ジャネットやネイサンをはじめ私をよく知る人たちが、そんな肩書などに惑わされずに見つけてくれている。

自分の脆さやせっかちな性格、弱さを他人にさらけ出すことで癒しがもたらされる。私が書いた本を読まない人たちや名声に関心のない人たちの目から見ても、「ヘンリはいい人だ」と突然教えられるのである。彼らは、いつもそこにある私のちっぽけな自己中心的な行為や振る舞いを赦してくれるのである。

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ヘンリ・ナウエン
オランダ出身のカトリックの司祭であり、元ハーバード大学教授。著作家。