第32回講演録

田坂広志 × 竹村真一

多摩大学大学院教授 × 京都造形芸術大学教授

テーマ

震災を乗り越えて、新しい未来へ【第1回】

プロフィール

田坂 広志/多摩大学大学院教授、シンクタンク・ソフィアバンク代表、社会起業家フォーラム代表、社会起業大学名誉学長
1951年生まれ。74年東京大学卒業。81年同大学院修了。工学博士(原子力工学)。米国の国立研究所とシンクタンクに務めた後、90年日本総合研究所の設立に参画。著書60冊余。新たな社会のビジョンと社会変革の思想を語り、新たな時代の生き方や働き方を提唱すると共に社会起業家の育成と支援に取り組んでいる。2011年3月~9月東日本大震災に伴い、内閣官房参与に就任。原発事故対策、原子力行政改革、原子力政策転換に取り組む。世界経済フォーラム(ダボス会議)GACメンバー、世界賢人会議・ブダペストクラブ日本代表も務める。

竹村 真一/京都造形芸術大学教授、Earth Literacy Program代表
1959年生まれ。東京大学大学院文化人類学博士課程修了。地球時代の新たな人間学を提起しつつ、世界初のデジタル地球儀「触れる地球」(2005年グッドデザイン賞・金賞)の企画開発など、ITを駆使した独自の手法で地球環境問題に取り組む。「100万人のキャンドルナイト」ほか多数のプロジェクトを推進。東日本大震災以降、政府の「復興構想会議」検討部会専門委員に就任。現在も東北の復興と日本の再興にむけ、内外で様々な提言とプロジェクトの企画を継続。著書『地球の目線』(PHP新書)など多数。

講演概要

東日本大震災から1年余。活発なポランティア活動や、人のつながりの大切さが見直されるなどの明るい現象が見られる一方、復興や原発の問題を契機とした様々な問題も露呈、多くの人が「このままでいいのか」、「何かがおかしい」といった行きづまりや疑問を感じています。震災で犠牲となった多くの尊い命のためにも、私たち人間と社会が進むべき未来への方向性を問い直し、それに向かうために一人一人は何をすべきかを、世界で活躍するオピニオンリーダーであり、震災後は政府中枢の内閣官房参与と復興構想会議検討部会専門委員として尽力された、お二人の深い洞察と見識による縦横な対話から考えていきます。

講演録

私たちは、どこに立っているのか


西園寺● 東日本大震災から1年が過ぎました。あの震災は、私たちが変わらなくてはいけないという自然からの警鐘だと思いますし、長い人類の歴史の中で非常に大事な転換点にいるのではないかと思います。そこで大きな切り口になりますが、我々は今、文明の中のどのような位置にあって、どういう方向に踏み出していくべきだと思われますか。

田坂● その問いに対して、私の答えは明確です。人類は、いまだ「前史」の時代にあり、「本史」は始まっていない。これが私の文明観です。地球46億年の悠久の歴史の中で、無数の生命、生物が生まれては去っていきました。しかし、人類の歴史は始まってまだ数千年、まだ前史の時代なのです。しかし、それは決して寂しいことではありません。我々は未来に対する思いを込め、本史の扉を開ける礎となればよいのです。人類がいまだに抱える貧困、戦争、テロ、差別。そして、目の前には原子力という大きな問題もあります。こういう問題を一つ一つ正面から取り組み、本史に向かって歩んでいかなければなりません。いつの日か、未来の人類が振り返るとき、我々は、「神話の時代」を生きているのかもしれない、そんな気がしています。

竹村● 私も人類はいまだ前史、言葉を変えれば幼年期にあると思っています。環境問題についても人類の文明や技術が進歩しすぎたから引き起こしているのではなく、未熟だから地球に負荷を与えているのだと。

しかし、ようやく幼年期を脱する兆しが見え始めた時代に入ったとも思っているのです。私は、20世紀後半における宇宙開発の最大の発見は、地球の発見だと思っています。そして我々は、私たちが住むこの地球は、何十億年かけて生物と共進しながら好都合な条件をつくってきた、奇跡の〝有り難い星〟だということを知り得た人類史上初めての世代です。その人類が、70億ものグローバルブレインとしてネットワークし始め、地球の体温や体調の変化を地球温暖化や気候変動と名付けて調整しようと活動を始めました。人間が環境をコントロールするなんておこがましいのはわかっていますが、巨象の背中に乗ったノミのような小さな存在が、これ以上、象に迷惑をかけないような技術を確実に作りつつある段階に入りました。このことは、人類の進化と成熟を促す大きな飛び道具になる可能性を持っています。そういう意味で、前史を終える準備段階に入った面白い時代といえます。私は、前史の終わりを見届けるまで死ねないと、時々思うのです(笑)。

西園寺● 長い歴史の中の近代文明というわずか100年、200年の間に、人類は地球を傷つけ、持続可能ではない方向へ向かっているように見えます。これからの文明を考える上でエネルギーという問題は避けて通れないと思います。

田坂● 私は、エネルギーも地球のスケールで考えるべきだと思っています。ガイア思想の提唱者、ジェームズ・ラブロック博士と対談をした時、「地球温暖化になったところでガイア(地球)は少しも困らない」と言われたことが心に残っています。確かに、地球は何億年もの間に、凄まじい灼熱の状態や氷河期などの気候変化、生態系の破壊と再生を繰り返しながら現在に至っているわけですから、非常に強く深い生命力を持っているのだと思います。

問われているのは、我々人類の存続です。かつて1億年を超えて地上に存在した恐竜も、最後は絶滅し、去っていきました。されば、これからの我々の選択によっては、人類が絶滅する可能性も大いにあるのでしょう。これからの文明論には、人類の存続に対する厳しい覚悟が、語られる必要があると思います。137億光年という壮大な宇宙空間の片隅にあるこの地球という惑星。そこに生きる我々に問われているのは、これから、どのような進化を遂げていくことができるのかとの問い。その人類の進化の姿を、この宇宙は静かに見つめているのでしょう。

竹村● この宇宙はより多様化し、より高次の秩序を構成していく方向へどんどん向かっているように見えます。

地球は、これまで陸・海・空の大変動でいろいろな生命の絶滅を経てきました。だから地球から見れば、温暖化も大したことではないかもしれません。しかし、私は、地球は変動するという事実を認めた上で、未熟ながらも大きな可能性を秘めた人類文明を内包した地球という惑星をサステナブルにし、未来へつなげていく価値があるのではないかと思うのです。というのは、宇宙でこのような惑星はめったにないからです。つまり、我々は宇宙を代表して進化の実験をやっているわけであり、宇宙全体に対する責任があると思います。そのためにも人類を滅亡させてはいけない。

世界中の巨大都市は、津波や洪水の影響を受けやすい沿岸低地にあります。日本の場合は、ちょっとした洪水でも大打撃となる10メートル以下の沿岸低地に人口の半分、資産の75%が集中しており、中国では1億5000万人が暮らしています。そして原発は世界で400基もある。このようなバッドデザインによる脆弱性からのリスクは、地球の気候変動を考慮したデザインにすると同時に、原発の代案となるエネルギーはたくさんありますから、原発のような壊滅的なリスクをもたらすものは、ソフトランディングしていくことでかなり回避できるはずです。私は、未完の人類と共進し得る地球の未来に対して責任を持ちたい、そう思っています。

新しい未来をつくるために、必要なのは私たちの「覚悟」

西園寺● お二人のお話から見えてくるのは、これからの未来に対する人類の責任だと思います。震災後、政府中枢で原発事故の収束に関わったご経験も含め、田坂先生は、どのようにお考えですか。

田坂● 私は、実は、かつて原子力施設と放射性廃棄物の環境安全研究で学位を得た研究者でもあったので、福島事故の直後、官邸からの要請により内閣官房参与に就任し、5カ月余り、事故対策で悪戦苦闘しました。

しかし、事故から1年が経ち、いま政府や財界には「技術的対策は取ったので、原発は安全に再稼働できる」との幻想が広がっています。私はこれを非常に懸念しています。なぜなら、問題の本質は、技術の問題ではないからです。何か問題が発生すると、よく技術的要因という視点から議論がされますが、例えば、機器の故障の場合、その故障の可能性を見逃した人的要因があるのです。すなわち、こうした「技術的な問題」の奥には、必ず、「人的、組織的、制度的、文化的な問題」が隠れているのです。

そして、現在の日本の原子力行政の人的、組織的、制度的、文化的な体質には、容易に事故を起こしてしまう極めて危ういものがあるので、そのことから、私は、総理に対して強く「脱原発依存」の政策を進言したわけです。端的に言えば、原子力という技術体系の是非を問う以前に、現在の日本人、いや恐らく世界の人類は、この極めてリスクの大きな技術体系を安全に使いこなせるほど、賢くはない段階かと思います。

では、原子力という技術体系は、人類にとって不要かと問われれば、答えは、慎重です。なぜなら、私は、人類に与えられるもの全てに意味があり、その意味を深く考えることによって、人類は成長し、成熟していくと思うからです。その歴史のスケールで見るならば、原子力も人類に与えられた一つの叡智なのでしょう。その歴史的スケールで、原子力の今後を判断すべき時が来たのかと思います。原発を使いこなす叡智が無ければ、この技術体系を千年封印することも考えるべきなのでしょう。ただ、人類の未来にどれほど熱い思いを抱き、理想を描き、現実の努力をしたとしても、我々は、その未来を見届けられないのです。しかし、マルティン・ルターが語った「明日、世界が終わりになろうとも、私は、林檎の木を植える」という言葉のように、未来を見届けることができなくとも、素晴らしい未来となることを信じ、その未来のために、思いを込めて林檎の木を植える。我々に問われているのは、この一点です。それは、単なる「楽観主義」ではなく、我々の「生きる覚悟」なのですね。

西園寺● 竹村先生は、田坂先生のお話をお聞きになって、いかがですか。

竹村● 私も同じ気持ちです。例えば、原子力の技術は、20世紀初頭にアインシュタインのE=mc2から始まり、自然界の化学反応では起こり得ない原子核を分裂と破壊することで膨大なエネルギーを生み出せることに気づき、それが半世紀経たないうちに核兵器や原発とに発展していきました。
しかし、私は、この原理が発見された20世紀初頭には、新しい解像度で見えてきた世界像を内部化した人間の精神の進化への洞察と、新しい技術に対する思考を深める動きがあったのに、非常に実利的な技術主義に流され、その洞察と思考を停止してしまったのではないかと思うのです。だからその洞察と思考を今、再開すべき時なのだと思っています。

例えば原発について思考するなら、まずは技術的な安全性を担保する。田坂先生がおっしゃるような組織的な安全を確保するという意味で、IAEAに拮抗するような別組織をつくるべきだと思います。次に、日本だけが脱原発の方向へ向かったとしても、中国では原発が進んでいますから、日本の安全保障を語るには、東アジア全体でエネルギー安全保障となる仕組みを考えることが必要です。そして、最後に本質的な問題である資本主義の構造を考えること。リーマンショックが良い例ですが、利益が発生している間は、一部のマネーゲーマーだけが利益を独占して、損失が発生すると社会で広く負担する構造がリスク低下を増大させています。原発も同じで、今、我々は電力という利益を得ていますが、次の世代にはゴミとなった廃炉というリスクだけを残そうとしています。このように、資本主義とエネルギー問題を分けて考えることはできません。資本主義経済全体で安全保障のデザインを考えなければなりません。

私たちは原子力というパンドラの箱を開けた知的な責任があると思います。潜在的な大きな能力を秘めている未開の人類が、本史になって本格的に扱い得るかもしれない原子力を引き受けていく時代が始まったのではないかと思います。

日本人の精神性を生かす時代

西園寺● 前史の時代、あるいは幼年期にある我々が成熟していくための必要な要素とは何だと思われますか。

田坂● 私は、天の配剤のごとく、大切なことがシンクロナイズして起こっていると思います。原子力エネルギーが壁に突き当たったことによって、自然エネルギーの普及・拡大が求められています。しかし、この自然エネルギーとは、単に原子力を代替するだけでなく、その普及・拡大に誰もが参画できるのです。原子力は、我々がどれほど議論をしても、それを作るのは、政府や電力会社です。しかし、自然エネルギーは、自宅に太陽光パネルを設置したり、省エネの努力をするなど、我々一人一人が新しい社会づくりに参画できるのです。

これまでの日本は、「劇場型政治・観客型民主主義」と揶揄される未熟な民主主義でした。しかし、本当の民主主義とは、ただ国家の政策に意思を表明できることではなく、社会の変革に国民が参加できることなのです。自然エネルギーへの取り組みは、国民の意識のあり方を変え、民主主義のあり方を変えていくでしょう。省エネルギーも同様に、我々の意識の成熟を求めています。それは、「節約=我慢」から「節約=知足」という意識への成熟です。すなわち、「欲望を無理に抑える」のではなく、「心が豊かになることによって、自ずと物質的な欲望が減じていく」という生き方への成熟が求められているのです。

現代社会は、心が満たされないために物質的な欲望に走り、エネルギーの消費を増大させていることに気がつくべきでしょう。そして、この心の満足という意味で、これから大切になるのは、「働き甲斐」という言葉でしょう。過去20年、社会には、生き残り、勝ち残り、サバイバルという寂しい言葉が溢れていましたが、日本という国は、本来、「働くとは、傍(はた)を楽(らく)にすること」という素晴らしい労働観を持つ国です。

また、「三方よし」、「浮利を追わず」という言葉に象徴されるように、日本という国の資本主義は、深い精神性を持っています。こうした原点に回帰し、働くことの尊さに気づくだけで、我々は心の豊かさを取り戻せるのではないでしょうか。そして、国全体の豊かさという意味でも、「GDPの高い国が豊かである」という幻想を捨て、成熟した社会における「真の豊かさ」とは何かを考えなければなりません。

では、成熟した社会とは何か。成熟した資本主義とは何か。人間の精神の成熟とは、相手の気持ちや人との縁の深み、人から受けた恩など、「目に見えない価値」が見えるようになること。されば、社会や資本主義の成熟も同じ。「智恵」「関係」「信頼」「評判」「文化」「共感」といった「目に見えない資本」を大切にし、それらの資本を豊かにしていく資本主義を、我々は世界に先駆けて創造していくべきなのでしょう。

竹村● 文脈をブロードバンドに広げて、人間の進化を人類学的にみると、人間とチンパンジーの遺伝子の違いはたった1%ですが、その差は大きく現れます。その本質的な違いは二つあります。
一つは他人の役に立ちたいという利他性です。つまり、傍を楽にする「働く」ということには、人間性の進化の本質が現れていると考えられます。ですから、従来の狭い勤労倫理ではなく、もう少し、生命進化史のなかに日本人の勤労倫理を置き直してみることも大事だと思います。

もう一つの違いは、暴力性を抑止できることです。チンパンジーの場合、子どもと大人の容姿は全く違い、自分の子でないとショッキングなまでの残虐性を見せたりしますが、人類はネオテニー(幼形成熟)といって、どこか幼い面影と好奇心や遊び心などを持ち続けたまま大人になり、攻撃性より親和性を優先します。人類には、いまだ戦争やテロがありますが、大きな目でみれば、チンパンジーから人類に進化する過程で、暴力性をスポーツやゲームなど別の形に昇華して、文化的にコントロールしてきたと言えます。

そう考えると、幼な顔の日本人はネオテニー最前線にいると言えますし、ほかいろいろ含めて考えてみても、人類進化の最前線にいるように思います。国粋主義や日本人が偉いという意味で申し上げているのではなく、日本人の文明という実験も、他国の文明という実験も、人類的な文脈に置き直し、地球人の共通のOSとして、人類が共に生きていけるよう先駆けて考えていく必要があるのかもしれません。

人間と社会が成熟するには

田坂● 成長、成熟とは、「螺旋的発展における深化」を遂げることだと思います。かつて哲学者ヘーゲルが、世界の進歩、発展は、右肩上がりの一直線ではなく、螺旋階段を登るように発展すると言っています。螺旋階段を登る人を横から見ると、上へ登っていく、進歩、発展していく。しかし、それを上から見ると、一周回って元の場所に戻ってくる。ただし、一段高い位置に登っている。つまり、古く懐かしいものが新たな価値を伴って復活してくるのです。

その視点で歴史を振り返るならば、螺旋的発展の事例は数多くあります。Eメールは手紙の文化の復活ですが、地球の裏側にも一瞬で届けられるようになった螺旋的発展です。最近、ネット革命とともに増大している「善意や好意で価値あるものを相手に贈る」ボランタリー経済も、実は古い贈与経済の世界規模での復活です。また、かつて資源が乏しかった時代のリサイクル文化が、大量生産・消費・廃棄の時代を経て、地球環境問題を契機として復活してきた。

このように世界は螺旋的発展の法則によって進歩、発展しています。では、これからの世の中では、何が復活してくるのか、そのとき、何が深化しているのか。そのことを考えることが、成長と成熟を考えるとき、極めて大切な視点かと思います。

竹村● 私たち人間は、自分たちに近いロボットや人工知能の研究開発を行なうことで初めて、人間の知性は人工的につくることのできない素晴らしいものだと知ることができました。そういう意味では、原子力も含めて、自分たちの技術力を最大限まで高めたからこそ、所与として与えられている、この地球や人間の素晴らしさもわかることができたと言えます。

最大の問題は、こういうことを子どもたちに教えていないことだと思います。21世紀最初の年に誕生した子どもたちは、今年で12歳になります。それがいまだ、16世紀のメルカトル地図で地理、歴史、地球環境問題を学んでいる状況です。今日、お話ししてきた内容や、新しい解像度で見る地球、宇宙、人類を子どもたちに提供する教育が必要です。これに尽きるでしょう。

西園寺● 今日は人類の未来に向けた、非常にスケールの大きな話を聞かせていただき、ありがとうございました。次回(9月20日)は、新しい文明、新しい社会を築いていくためのより具体的なお話を伺わせていただきたいと思います。