第35回講演録

小泉英明

脳科学者、物理学者、日立製作所 役員待遇フェロー 日本工学アカデミー 理事・国際委員長

テーマ

脳科学と人間 ~心の計測・解析の最先端が垣間見たもの~

プロフィール

1971年東京大学教養学部基礎科学科卒業。日立製作所入社後、基礎研究所所長、研究開発本部技師長などを経て、2004年より現職。理学博士。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理の創出ほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置、MRA(磁気共鳴血管描画)法、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置など、脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。また、脳科学の知見を教育手法に応用する意義をいち早く唱え、大規模研究プロジェクトを主導。著書『脳は出会いで育つ:「脳科学と教育」入門』(青灯社)ほか多数。

講演概要

「我思う、故に我あり」と思うのも、「人間は考える葦である」と考えるのも、人間の脳の働きです。「思う」と「考える」を併せると、「思考」となります。非侵襲脳機能イメージング(身体を傷つけずに脳の働きを画像化する方法)の急速な発展により、私たちの精神活動を含めた、脳の高次機能が観測できるようになってきました。

人間の尊厳として考えられている「心」は、脳の中にどのように生まれるのでしょうか。他者への思いやり・温かい心、あるいは感動や幸福感はどのようにして脳内に形成されるのでしょうか。このような議論が、科学の視座から可能になってきました。脳科学の新たな知見を、人文学・社会科学と架橋・融合させ、「脳科学と教育」、「脳科学と芸術」、「脳科学と倫理」など、いま、多くの新領域が生まれつつあります。

講演録

21世紀の科学が目指すべきもの

 
20世紀の科学は、全体を部分に分解し、探究することで世界が見えてくるというデカルトの要素還元論によって、大きく進展してきました。

21世紀の科学は、要素還元論的に専門化、細分化し続けるのではなく、例えば、人文学と社会科学を橋渡しや融合して、新しい分野を作り出す。研究と実践現場を橋渡しするなど、広い分野が協力し合い、異分野が架橋、融合していくことで新しいものを生み出していくことが重要だと思うのです。私は、これを俯瞰統合論(Trans-disciplinarity:TD)と呼び、提唱しています。それと、もう一つ大切だと思っているのは、”Human Security and Well-Being(ヒューマン・セキュリティー・アンド・ウェルビーイング)”。簡単に訳せば「人々の安寧とより善き生存」です。

科学技術の発展により、社会はとても便利になりました。しかし、科学技術の発展は、それに従事している人にとっては目標ですが、人間全体にとっての最終的な目標ではないと思います。「安寧に生活できること(Human Security)」、「生きがいや幸せを感じられる生活の質(Well-Being)」。この二つの組み合わせが人間の目標であり、科学の目標でもあると思います。

現在、脳科学の進歩によって、私たちの感じること、考えていることなどが脳の働きとして捉えられるようになってきました。哲学、心理学、文学、音楽、芸術なども、主には脳の働きで生まれると言えますから、脳を解明していけば、今まで科学とは無縁と思われていた分野へ別のアプローチによる理解が進んでいくことが期待されます。もちろん、科学で全てのことが分かるという、おこがましい考えは持っていません。むしろ、科学が進歩し続ける先に、科学だけでは解明できないものが表れてくるかもしれない。そういうことに期待している部分もあるのです。

「科学」の在り方を左右する「倫理」

 
科学=サイエンス・アンド・テクノロジー(科学技術)とよく言われますが、語源を辿ると、サイエンスとテクノロジーに、エンジニアリングが加わった3つの要素があり、それぞれ別の概念であることに気付きます。

サイエンス(Science)の”Sci”・は、古代のギリシャ語の「分ける」という意味を持つ言葉が語源で、人間が自然界や人間を理解する、きちんと知る、分かるという意味です。エンジニアリング(Engineering)の”gin”は古代ギリシャ語の「生む」という言葉が語源。人間が作り出すものを指しており、倫理の問題が関係してきます。地球温暖化もそうです。テクノロジー(Technology)の”Techno”は、ラテン語の「芸術」と同根の言葉ですが、自然を真似て作る意味合いを持っています。例えばiPS細胞について言うと、iPS細胞が作れることが分かったところまでがサイエンス、応用はエンジニアリングにあたります。ここをはっきり区別し、最初の段階で倫理をしっかりと意識することが、極めて重要だと考えるわけです。

私は、ソニー教育財団で、「科学する心」を育むことを目的とした幼児教育支援プログラムの審査委員長を10年近くしています。科学する心とは何かと申しますと、自然の素晴らしさに深く感動する心や好奇心、真実を認めて事実を決してごまかさない心、偏りや思い込みなしに率直に判断し行動する心、自然の中に生かされる命を大切にする心、多様性を尊び相手を思いやる心です。科学から離れていると思われるかもしれませんが、動物と人間の違いは何か、人間同士はなぜ共存できるのか、といった科学の視点で考える力を幼い頃から自然な形で養うことで、地球と人間のための新しい倫理の創出に期待しているのです。シャボン玉の薄い膜のように、空気の層が地球表面にへばりついた地球生命圏で生きる私たち人間は、一緒に存在する他の生物たちのことも考えていかなければなりません。

日本発の新概念「脳科学と教育」


人間に最も近いと言われているチンパンジーと人間の相違点は、言語能力と複雑な道具を製作し、利用すること。それと積極的な教育です。そこで、この人間独自の教育を科学で扱うため、文化系の教育の要素である道徳などの価値観を除き、教育と学習を再定義し、「脳科学と教育」という研究領域をつくりました。価値観については、「脳科学と倫理」という新領域で研究中です。

学習は「環境からの外部刺激により、脳の神経回路が構築される過程」であり、教育は「環境からの刺激を制御・補完し、学習を鼓舞する過程」としたのですが、人間は誕生から1歳までに重要な発達を経て、その後は学校教育を受け、社会に出れば組織の維持や発展などの学習と教育に関わりますし、療育や治療、リハビリテーションなども含めれば、人間の学習と教育は、生から死までの一生を通じた非常に包括的な概念として捉えることができます。

「脳科学と教育」は、2000年の国際会議を契機に、これまでにない新しい研究領域として、文部科学省と100億円以上の研究費が投入されるプロジェクトを行ってきました。人間の脳は環境に大きく影響されます。しかし、どのように影響されているのかは、まだ実証されていません。このプロジェクトの中では、環境の変化、情報化、バーチャルなデジタルメディアの普及と個人化、核家族化、少子化、他者との疎遠化、効率化ということで価値観が矮小化し、利便性が素晴らしい価値として誤解する社会が、子どもの脳にどんな影響を与えているのか。そして、人間としての大事な心の働き、脳の働きを赤ちゃんの時から調べ、環境の変化が、脳や心身に与える影響を客観的に評価するための研究も行っています。

見つけてあげられた意識


現在、MRIの進化によって脳の働きが見られるようになってきました。その成果から、これまで心理学が扱ってきた、感覚、認知、思考、意思決定、計画、行動、これら全体を見ている自己意識、さらには記憶、慈愛などの情動といった、心の働きを司る脳の器官も徐々にわかってきました。視覚、聴覚など、優れた感覚器で捉えたものは筋肉を使って外に出ます。例えば、声を発するには口の細かい筋肉、呼吸をするには肺の筋肉を使います。筋肉が神経で制御できなくなると私たちは何もできないし、コミュニケーションも全くとれなくなります。

では、植物状態のALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんは、意識がないのでしょうか。昔、ALSの研究中にお会いした患者さんたちは、植物状態の中で意識があることを想像するだけで怖いとおっしゃっていました。それで私は決心し、95年から研究を始め、2年半植物状態の患者さんのご家族にご協力いただき、患者さんの意識について調べさせていただきました。患者さんに計測器をつけ、ご家族から耳元にそっと話しかけていただくと、患者さんの言語野が活性化したのです。次に、ある質問に対して答えがイエスだったら右手を握ることを考え、ノーだったら何も考えないように伝えたところ、これも成功。コミュニケーションをとることが可能になったわけです。この結果は、ALSの患者さんをどう扱うかという次の段階の問題を表すことになりましたが、ご家族の方はとても喜ばれていました。

人間の脳は、利他的である


サルの調教で、芸が上手にできてご褒美のバナナをもらった時に動く脳の場所を線条体といい、これは人間も持っています。人間を対象に、この種の研究をしたのは「脳科学と教育プログラム」が初めてなのですが、実は人間も報酬をもらうと線条体に信号が出ることが分かりました。さらに、人間は金銭だけでなく、褒める、信用されるなど、精神的な報酬でも反応するのです。人間は、自分が損をしても相手の喜ぶ姿を見ると、喜びを感じることが客観的に証明されたデータといえます。これは、人間の大変素晴らしい部分であり、私はここに教育の原点、これからの希望があるような気がしているのです。