第37回講演録

中村桂子

理学博士、JT生命誌研究館館長

テーマ

生きものはつながりの中に

プロフィール

1936年生まれ。東京大学理学部化学科卒業。同大学大学院生物化学博士課程修了。三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授などを歴任。93年JT生命誌研究館副館長。2002年4月より現職。著書『ゲノムが語る生命-新しい知の創出』(集英社新書)、『科学者が人間であること』(岩波新書)ほか多数。

講演概要

小学6年生の国語でこのテーマを考え、「つながり」という認識が生き方を変えたことを実感します。40億年近く前に誕生した細胞から私たちまでのつながり、受精卵に始まる個体の一生というつながり、宇宙へと広がる外とのつながりを実感すると、生きていることの素晴らしさが見えてきます。その上でどう生きるかを考えると、どのような社会をつくることが「本当の賢さ、本当の幸せ」(宮沢賢治の言葉)につながるのかが見えてくるように思います。人間は生きものであるという当たり前のところから、今、大事なことは何かを考え、私たちの社会に本当の賢さや本当の幸せがあるかを考えます。

講演録

日本人がこれからの生き方を考える時、その原点になるのは東日本大震災だと思っています。ほぼ半世紀の間、生きものとは何かを考えてきた者として思うことは、自然をコントロールできるかのように考えてきた人間が、自然の力のすごさを思い知らされた体験でした。また、20世紀の科学技術として開発し、安全に使えると信じてきた原子力発電が、事故を起こしてしまいました。つまり、人間が自然に対して謙虚に向き合い、その中で科学技術を使っていかなければならないのです。

震災が東北で起きたということでも考えさせられました。震災後、テレビでの政治家、科学者、経済評論家の話は、心に響きませんでした。一方、津波で船も家も流された漁師の方は、自分たちが生きていけるのは海のおかげ、海を恨んでも仕方がないと仰り、福島の農家の方が、今年もツバメが巣作りにやって来るからと、放射能で汚染されて米が作れない田んぼに水を張る姿は胸を打ちました。21世紀の生き方として、東北の方が進んでいるのではないかと思いました。こうして、自然とは何か、自然とどう向き合うべきか、科学技術や近代文明はどのような方向へ進めばいいのかなど、いろいろなことを考えさせられました。

人間は生きものであり、全ての生きものとつながっている


ここで私たちは、人間は生きものであり、自然の一部であることに立ち返る必要があると思います。生命誌絵巻(右図参照)と名付けた絵をお見せします。扇の縁にバクテリア、きのこ、ひまわり、ゴリラ、イルカなど、たくさんの生きものが描かれ、地球上には多様な生物がいることを表わしています。生物学の本には、170万種の生きものが地球上にいるとありますが、これは特定されている種の数であって実際には5000万種以上の生きものがいるだろうと想定されています。それだけ生物は多様なのです。

ところで、地球上の生きものは全て細胞でできており、細胞の中にはDNAがあります。この共通性は、偶然とは考えにくく、様々な研究から全て一つの祖先(扇の先端)から誕生したと考えられています。化石の調査などから、38億年前の海にはすでに細胞があったと考えられます。つまり、人間も他の生物も38億年という途方もない長い時間の重みを持ってここにいる。これが人間は生きものであるということの意味です。環境問題などを語るとき、人間はこの扇の外にいるつもりになりがちですが、私たちは扇の中にいるのです。自然の一部であり、他の生きものとのつながりの中で生きているのです。

つながりの例を生物学で見ていきます。熱帯雨林に常に実が生っており、動物たちが生きる上で大切なイチジクの木があります。この木は、キープラントと呼ばれます。実の中には1.5ミリ程度のイチジクコバチという蜂がいて、子育てをしています。コバチはイチジクの受粉を行い、イチジクがコバチの子育てを手伝う一対一の関係を5000万年もの間続けてきたことが、大きな熱帯雨林を作ってきたともいえます。哺乳類、鳥類、魚類など様々な生物が存在するなかで、地球を支えてくれているのは虫と木だということも、つながりの中から見えてきます。

人間ならではの「生きる力」


ただ、人間は、ほかの生きものと同じように自然のままに生きるのではなく、言葉や技術を生かして人間独自の文化・文明を創ります。DNAから見ると、人間に最も近いチンパンジーと人間との決定的な違いは、言葉と想像力です。想像力は「創造力」の元です。実は、分かち合う心も人間特有です。チンパンジーは、求められれば分け与えますが、相手の気持ちを想像して与えることはありません。もう一つ、人間には父母、祖父母、曽祖父母などの縦のつながりがありますが、野生の生物にはありません。

これら人間の特徴を、私が交流している福島県喜多方市の小学校の農業科の子どもたちを通して実感しています。例えば、初めは農業を嫌っていた子どもが、畑の枝豆に向かって「早く大きくなれよ」と話しかけたり、ある子どもは、自分で育てたあずきで炊いた赤飯を一人暮らしの老人に配ったところ、泣いて喜んでくれたとか、生きものが仲間であることや、高齢社会とのつながりなどを体験から実感していくのです。お説教はいりません。

文部科学省の指導要領では、「生きる力を育てる」ことを教育目標にしていますが、つながりというものを考えながら、子どもたちと接するうち、私なりに「生きる力」をこう考えるようになりました。まず、「素敵な笑顔」であること。農業をしている時は、皆、いい笑顔です。そして、「自分で考えて行動する」こと。自分がやりたいことは、積極的に大人とコミュニケーションをとって、実行に移しています。

第二のルネッサンスへ


現在の日本は、金融経済を第一に考えます。経済は大切ですが、お金第一ではないでしょう。地球上のたくさんの命を大事にし、生きる力を養い、農業や健康や教育を大切にする技術を開発して、その新しい技術で経済を活性化していく方法を考えたいと思っています。

近代経済学の祖と言われるアダム・スミスは「人間はつながりを持った社会的な存在であり、富の重要な役割は、人と人をつなぐこと、富の役割を生かせる世界を目指し、今できることに真の希望を見出すこと」と言っていたと、大阪大学大学院の堂目卓生先生から伺いました。価値観を変えるのは難しいという声もありますが、変えていかなければならない時が来ていると思います。

科学技術文明の原点を考える時、時代は西洋のルネッサンスまで遡ります。ルネッサンスは「人間復興」。私が好きな小説家の塩野七生さんは、教会の権威から脱却し、宗教が全てではないと宗教を相対化し、権力が集中しないよう市民と情報を共有し、神様から解放された人間を生んだのが第一のルネッサンスだと仰っています。

ここでの宗教を科学技術に置き換えてみます。科学技術は万能ではなく、ほかにも大事なものがあると相対化させ、専門家の持つ情報をオープンにしていくことで、生きものとしての人間が解放されるのだと思います。ルネッサンスの人間復興は、良いことも悪いことも神と悪魔のせいにせず、自分で引き受けて、自分で考えるという強い精神性を持つ人間の誕生を指しています。今、私たちも「考える強い人」になる必要があります。

私は生物学という専門を持っていますが、生物学からの視点だけで物事を見たり考えたりしないよう務めています。全ては、自然との関係の中にあり、つながっているのですから、家事をはじめ、日常的な当たり前のことを大事にし、一方で私なりに自然や宇宙を考えるようにしています。

最後に、私はこれまでお話ししたようなことを考える時に、「愛づる」という言葉を基本に置いています。物事の本質を探り、その行く末を観察すれば、物事には必ず理由があることに気づきます。愛づるという言葉は、その本質を見て、素晴らしいと感じた時に使う言葉です。DNAや細胞を知らなくてもきちんと物事を見れば、本質にたどりつけます。だた、幸いなことに現代では、DNAを通じて愛づることを基本に、生きものの世界を考えられます。それが、生きものの一つである人間が互いを大事にし合う社会につながることを願い、日々仕事をしております。