第40回講演録

関野吉晴

探検家、医師、武蔵野美術大学教授(文化人類学)

テーマ

「グレートジャーニー 人類の旅」~我々はどこから来て、どこへ行くのか~

プロフィール

1949年東京生まれ。一橋大学在学中に探検部を創設、アマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下る。その後医師となり、南米への旅を重ねる。93年から02年にかけて、アフリカで誕生した人類がユーラシア大陸を通ってアメリカ大陸に拡散した道を、南米最南端から逆ルートで辿る「グレートジャーニー」に挑戦。04年からは「新グレートジャーニー日本列島にやって来た人々」をスタート。シベリアから稚内までの「北方ルート」、ヒマラヤからインドシナを経由して朝鮮半島から対馬までの「中央ルート」、インドネシア・スラウェシ島から石垣島までの「海のルート」を踏破。著書、写真集多数。1999年植村直己冒険賞受賞。

講演概要

アフリカで生まれた人類は世界中に移動し、住まないところはないほどに広がりました。豊かで、便利な文明をつくりましたが、地球資源を使い果たし、環境を破壊するという負の側面も持っています。この負の側面を回避するにはどうしたらいいでしょうか。

今も伝統的な暮らしをする人々は、苛酷な自然環境の中で、自然を利用しつつも破壊せず、自然の一部となって持続可能な暮らしを続けています。自然をコントロールできると過信した私たちとは対照的な考え方や価値観を彼らは持っています。彼らが自然とどのように付き合ってきたかを検証し、そこからヒントを得ることが、人類が生き残る一つの道だと考えています。

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講演録

南米に住む先住民は、背格好や顔、仕草などが日本人とよく似ています。私は1971年にアマゾンを訪れて以来、先住民に間違われるほど似ていると言われ続けてきました。この私たちに似ている先住民の祖先は、ユーラシア大陸と北米大陸をつなぐベーリング海峡がまだ陸続きだった時代に、シベリアからマンモスなどの動物を追いかけて来たモンゴロイドであり、その一部がさらに南下して、南米最南端へ辿り着いた人々です。
私はアマゾンに通い、彼らと会ううち、知識で理解しているこの旅を実感として味わってみたいと思い、5万3千キロの旅に挑戦することにしました。

そうなると、旅のゴールは自ずとモンゴロイドの起源の地となり、シベリアやモンゴル、中国の北方などを初めは想定していたのですが、調べるほどにモンゴロイドとは何かが分からなくなっていく。例えば、お尻の蒙古斑は、環境や栄養状態で変わりますし、遺伝子や血液型には判別できる因子はありません。つまり、ここからここまでがモンゴロイドという判別基準が設定できない。元を辿れば、私たちは皆、一緒だったわけですからね。

そこで、モンゴロイドではなく、人類の起源を辿る旅に変更し、人類最古の家族の足跡の化石が見つかった、タンザニアのンゴロンゴロ自然保護区をゴールに設定しました。というのは、人類は、生き延びる過程で火や言葉の発見など、数々の偉大な業績を残してきましたが、その中で最も偉大なのは、二本足で立って歩いたこと。そして、それと同時に家族が生まれたことだと考えるからです。

弱さを克服しながら進化してきた人類


人間は弱い生き物です。四足歩行のままだったら、ほかの動物に歯が立ちません。また、人間は一人では生きていけませんから、夫婦になり、子どもが産まれて家族になる。それが増え続け、大人数の集まりになった。四足動物から見れば、高さのある二足歩行の動物が大勢いたら簡単に襲おうとは思いません。それと、二本足は長距離を歩くのに適していましたから拡散も可能にした。二本足で立って歩くことには、人間の弱さを克服するための様々な大きな意味があったのだと思います。

私たちは、20万年前にアフリカで誕生したホモサピエンスです。その前には、猿人、原人、ネアンデルタール人など、20種類の人類が誕生し、そして全て滅びていきました。ここで面白いのは、弱い方が生き残ってきたという事実です。例えば、猿人は、華奢な顎と頑丈な顎を持つニつのタイプが存在していましたが、滅んだのは頑丈な顎の方でした。それはなぜか。頑丈な方は、何でもガリガリ噛み砕くことができるので、状況に応じて考えたり、工夫することがない。一方、華奢な方は、硬いものは石で叩き割って食べるなど、その場の状況によって考え、工夫する適応力が発達してきました。

同時期に存在していたといわれるホモサピエンスとネアンデルタール人も適応力の違いで、肉体的に大きく強いネアンデルタール人の方が滅びましたが、その大きな違いはコミュニケーション能力だったといわれています。それは、二本足に進化したことで声帯が下がって音を出せる空間が広がり、複雑な声を出せるようになったのですが、ホモサピエンスとネアンデルタール人は、歯の奥にある口蓋の形状が違ったために、言葉の発達に大きな差が生まれたのです。

では、弱い人類はなぜアフリカから出て、地球上へ拡散したのでしょう。私は、その原動力は好奇心や向上心、あるいは動物を追いかけて行ったのだと考えていました。しかし、そうであれば好奇心も向上心も強い進取の気象に富む人のはずですが、人類が辿り着いた最南端のナバリノに住む、絶滅寸前のヤマナという部族の子孫は、真逆の弱そうな人でした。ラオスで会ったモンという部族も中国の戦乱時に長江から逃げ、山で稲作をしている人々です。恐らく、最東端の日本も弱い人々が集まってきたのだと思います。つまり、人口が増える、戦乱が起こるなど、誰かが出て行かなければならない状況が起こった時、突き出されるのは弱い人なのです。例えば、戦前だと東北の人は満州へ行きました。南米やハワイへ渡った移民も家族の中で立場の弱い次男や三男です。

こうした人類の大移動は、現在でも続いていて、日本にはアジアなどから自国で食べていけない人がやって来ています。新宿区では、新生児の4人に1人は外国人の子どもです。ただし、突き出された人は弱いままではなく、追い出した人間よりも強くなることがあります。その典型が日本やイギリスに渡った人々で、善し悪しは別にして、日本人はアジアを、イギリス人は世界を制覇しようとしました。これらは歴史上、繰り返されて来たことだと思います。

成功への道は、諦めない心


私の人類の起源を辿る旅は、全て自分の腕力と脚力で旅をするというルールを課して93年にスタートし、2002年にゴールしました。以来、関野さんは失敗したことがないでしょうと、言われることが増えましたが、そんなことはありません。旅は、小さな冒険の積み重ねであり、その冒険には成功と共にたくさんの失敗がありました。失敗を重ねるうちに、賢くなったり、いろいろなことが分かっていくわけです。必要なのは能力ではなく、「諦めない心」です。失敗しても死ななければ何度でもチャレンジできますし、チャレンジし続けたから到着できたのであって、失敗しなかったから到着できたわけではありません。つまり、グレートジャーニーは誰にでもできることなのです。

この旅を終えた後、私は自分のルーツを知りたくなり、出身地の墨田区向島の革のなめし工場で働かせてもらいました。ルーツを調べるだけなら取材で済ますこともできたのでしょうが、そこで働く人々と深く関わりたかったのです。

しばらくして、自分の遺伝子を調べると、北海道の縄文人に突き当たり、私は、自分たちの祖先が、いつ、なぜ、どのように日本列島にやって来たのかを辿る旅を始めようと決めました。この旅では、自然の素材で自ら作った船で移動することをルールにしました。

はじめは、石器で船を作ることも考えましたが、5000キロの大海原では不安なので鉄製に変更し、砂鉄を集めるところから始めました。200人以上の学生と九十九里浜で砂鉄150キロ、炭を作るための松を岩手で3トン集め、一年がかりで船を作り、武蔵野美術大学の卒業生二人をクルーに加えて出発しました。

航海中の道案内は、コンパスやGPSではなく、島影と星の位置と一番簡単な400万分の1の地図だけ。海の深さはその色の濃淡で確かめ、暑さや寒さ、風や匂いや埃を太古の人と同じように五感で感じ、太古の人に思いを馳せながら旅をしました。

結局、二年で終わる予定が四年もかかってしまい、全行程に、生活習慣の違うインドネシア人のクルーが加わることなどもあり、卒業生は、食事も排泄も24時間一緒の異文化共生社会を体験しながら、何が起こるかわからない環境下で様々な出来事に対処してきました。きっと、彼らは、何があっても生きていける逞しさを身に付けることができたと思います。

現代に生きる我々は、五感を使わなくなりました。使えばいろいろなことがわかるのに、使わないから衰えていくばかりです。それも自然から離れた生き方が招いていることだと思います。自然は、大きな恵みを与えてくれます。しかし、意地悪もするし、懲らしめもします。昔の人が、自然を神のように崇拝した気持ちがわかる気がします。自然はコントロールできません。私たちは、自然界に存在しないものは作ろうとすべきではないし、もっと自然界に寄り添う生き方をすべきなのだと思います。