第45回講演録

安田菜津紀

フォトジャーナリスト

テーマ

写真で伝える世界の子どもたち ─カンボジア、東北、シリア難民─

プロフィール

1987年神奈川県生まれ。studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト。16歳の時、認定NPO法人「国境なき子どもたち」の友情のレポーターとしてカンボジアで貧困に晒される子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年「HIVと共に生まれる-ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。現在TBS「サンデーモーニング」コメンテーター、J-WAVEのニュース番組「JAM THE WORLD」のナビゲーターも務める。著書『君とまた、あの場所へ:シリア難民の明日』(新潮社)。写真絵本『それでも、海へ 陸前高田に生きる』(ポプラ社)。共著に『ファインダー越しの3.11』(原書房)。上智大学卒。

講演概要

内戦後の復興の道を進む中、格差が拡大するカンボジア、あの日から5年目を迎えるものの、まだ道のりの長い東日本大震災後の被災地、終わりの見えないシリア内戦から逃れ、故郷へ帰る日を待つ人々。その環境で生きる子どもたちは、何を見つめ、何を感じているのか。彼らはこれからどんな道を歩むことになるのか。世界の至る所で情勢が混迷を極める中、なぜそれを現場に足を運び、伝える必要があるのか。取材地で出会った人々の息吹を写真でお伝えしながら考えていきたいと思います。

講演録

 

フォトジャーナリストとして、私が最も足を運んでいるのがカンボジアです。なぜ戦争をしてはいけないか。この問いの答えの一つがカンボジアにはあると思っています。現在、地中に埋まっている地雷は約400万個。全て除去するには、100年はかかると言われ、私がよく通う村の農家の男性は、内戦中に片足を、和平協定の締結後に、もう片方の足を地雷で失くしています。書類の上で、戦争の終わりが決められても、実際にはこうして何十年先も本来の争いとは無関係の人たちが、傷つき続けてしまうのです。

「家族とは?」答えを探して

初めてカンボジアに足を運んだのは16歳の時で、認定NPO法人「国境なき子どもたち」による、子どものレポーターとして派遣されたのがきっかけです。中学2年生の時に父親、その翌年に兄を亡くした私は、家族って何だろうとずっと考えていました。学校生活で見つからなかった答えが、自分と全く違う環境で生きる同世代の子どもたちに会うことで見つかるかもしれないと思ったのです。

カンボジアでは、トラフィックト・チルドレンという人身売買の被害に遭った子どもたちが暮らす施設で、彼らと主な時間を過ごしました。彼らは、皆、明るくて人懐っこく、エネルギーに溢れていますが、3、4千円の値段で売られ、稼ぎが悪ければ暴力を振るわれ、ひどい時は電気ショックで虐待されるなど、壮絶な過去を背負っています。しかし、彼らがまず語るのは、自分の辛い体験ではなく、家族への思いでした。

彼らの言葉は衝撃でした。「私が守ろうとしていたのは自分だけだった。いつか彼らのように誰かを守れる人になりたい」と、わずか10日間の滞在が、生きる上で大切なことを教えてくれました。

奇跡の一本松

東日本大震災から今年で5年になります。義理の父母は、岩手県陸前高田市に暮らしていました。義父は幸い、津波から逃げられましたが、義母は、震災発生から1カ月後に海から9kmも離れた気仙川の上流で、愛犬2匹の紐を握り締めたまま遺体で発見されました。手話通訳をしていた義母は、地震が多い土地柄、津波警報が鳴ると、耳の不自由な人のもとへ走るような人でした。

人のために生きてきた母の命をこの町でつないで行こうと、私はしばらく陸前高田に留まりました。しかし、圧倒的に破壊された町を目の前に、何を伝えたらいいのかわかりませんでした。そんな時、唯一、シャッターを切ることができたのは、「奇跡の松」と呼ばれた一本松を見た時でした。私は、7万本の中で耐え抜いた1本の松が希望の象徴のように思えて、夢中でシャッターを切りました。写真が新聞に掲載されると、義父のもとへ走りました。

義父は、県立病院に勤務する医師で、日頃から声を荒げる人ではありませんでしたが、「あなたには、この一本松が希望の象徴に映るかもしれない。だけど、7万本と一緒に暮らしてきた自分たちにとっては、1本しか残らなかったんだ。津波の威力を象徴するもの以外の何物でもない」と言われました。私は、ハッとしました。自分は誰のための希望を捉えたかったのか、どうしてシャッターを切る前に、もっと人の声に耳を傾けなかったんだろうと。震災の心労がたまっていた義父は、昨年7月、避難先の栃木県の親戚の家で亡くなりました。私は、あの時、はっきり伝えてくれた義父に、今も大きな感謝を抱いています。

できることを持ち寄る

震災から1カ月経った4月21日、陸前高田市の気仙小学校では、二人の新1年生を迎える小さな入学式が、高台に残った小学校の図書室を間借りして行われました。子どもたちに保護者の一人が、語りかけました。「君たちの命は、町の宝物です。校舎は流されてしまったけれど、小学校生活6年をかけて、自分たちの命を磨いてください。これだけは、大人たちと約束してください」と。

入学式が実現できたのは、体育館の避難所で暮らしながら奔走した二人のご両親や先生方、洋服や道具箱などの物資を援助してくれた方々、直前まで校舎を掃除してくれた県外のボランティアの方々の力があったからです。一人一人ができることを少しずつ持ち寄れば、このように乗り越えられるものがあるということを、二人の子どもが私たち大人に呼び起こしてくれたと思っています。

少しずつ前へ

陸前高田市の根岬という港町に、私が最もお世話になっているベテラン漁師の菅野修一さんという方がいます。震災発生時、菅野さんは津波が到達する前に沖に船を出し、船を守ることができましたが、次々と波に船ごと飲まれていった仲間や、変わり果てた故郷の姿を前に、長年続けてきた漁師を辞め、船を見ることさえしませんでした。

そんな菅野さんが、海へ戻るきっかけになったのは、孫の修生君、通称しゅっぺの「爺ちゃんが捕ってきたお魚が、もう一回食べたい」という一言でした。怖い思いをしたはずの孫の一言が、海の恵みを再び孫や地域の人々に届けたいと、菅野さんの心を海へ向かわせました。そして、震災から2カ月後、菅野さんが出港すると、少しずつ漁師仲間も港へ戻って来てくれました。

2014年10月、根岬地域の伝統的な祭り「梯子虎舞」が、震災後初めて行われました。開催を反対する声もありましたが、こういう時だからこそ地域を元気づけようと、菅野さんは先陣を切りました。陸前高田市内の2000戸超の仮設住宅はまだ6割が入居中で、働き手の若い世代は町を去り続けています。しゅっぺの将来の夢は、地上20mものの梯子の上で、唐獅子の衣装で曲芸を披露する勇士になること。将来、彼らが安心して暮らせる町になっているよう、5年を超えたこれからこそ、私たちは被災地に心を寄せていくべきだと思います。

平和をつくるための「役割分担」

東日本大震災と時をほぼ同じくして、シリアでは内戦が始まりました。国内の安全な場所や国外に逃れた難民は1000万人超。元の人口2000万人の約半分です。

シリアには、ハミディアと呼ばれる市場や古都ダマスカスほか、世界遺産も多く、私が通った国の中で最も風景の美しい、人が温かい国だと思っています。シリアの南に隣接するヨルダンへ逃れてきた難民たちの取材を続ける中で、記憶に強く残る二人の子どもがいます。ヨルダンの正式な難民登録者は60万人超ですが、実際の数はその倍とも言われ、国境警備は非常に厳しいものになっています。

病院に入院中の9歳の女の子は、怪我を負った自分だけが家族と引き離されて入国を許可され、一人で不安と戦っていました。彼女の隣のベッドには、爆撃で重傷を負った5歳の男の子が横たわっていました。一時、起き上がれるまでに回復しましたが、その姿をカメラに収めた翌週、容態が急変して亡くなりました。

私は、誰かの命が失われるのを見るたびに、自分の仕事の意味を問い続けてきました。そんな時、現地のNGO職員の方が、「自分たちはここで難民に寄り添えても、何が起こっているかを世界に発信できない。あなたにはそれができる。これは、役割分担なんだ」と、言ってくれました。

確かに一人の人間が全てのことをできるわけではありません。年齢、立場、職業に関わらず、一人一人ができることを少しずつ持ち寄れば、乗り越えられるものがあるし、一人一人に必ず役目があると思っています。一昨年の秋、陸前高田市内の仮設住宅に住むおばあちゃんたちが、シリアの子どもたちが冬越えできるよう、衣類を集めてくれました。支援を受けた経験を生かし、受け取る人のことを考えながら、丁寧に仕分けし、梱包してくれました。

自分たちが世界中から支援をしてもらった恩を、恩返しではなく、恩送りをしたいと言いながら。熾烈な内戦は止められないけれど、日本にいても支え合うことはできる。それを学ばせていただいたように思います。