第48回講演録

副島賢和

昭和大学大学院保健医療学研究科准教授、ホスピタル・クラウン

テーマ

病気の子どもに教育は必要ですか?~院内学級の子どもたちが教えてくれた大切なこと〜

プロフィール

1966年福岡県生まれ。東京都公立小学校教諭として25年間勤務。うち8年間、品川区立清水台小学校「昭和大学病院内さいかち学級」担任。20144月より現職、「昭和大学病院内学級」を担当。学校心理士スーパーバイザー。大阪Tsurumiこどもホスピス教育部門担当。教育ボランティアへの研修も行う。日本テレビドラマ『赤鼻のセンセイ』(09年)のモチーフになる。NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演(11年)。著書『心が元気になる学校』(プレジデント社)、『あかはなそえじ先生の ひとりじゃないよ』(学研教育みらい)ほか。

講演概要

病気や障害がある子どもたちの教育の必要性を尋ねられると、多くの大人たちは、「必要です。たとえ病気でも、障害があっても、教育は大切です」と、言われます。しかし、実際にそのような子どもたちを目の前にすると、こう言います。「元気になったらおいで。今は、ゆっくり休んでね」と。確かにその言葉が、通用する子どもたちもいます。ただ、長期入院などで、そうできない子どもたちもいるのです。そんな子どもたちやご家族のために、医療・福祉・教育などのそれぞれの立場で何ができるか、どのようにつながっていくとよいのか、一緒に考えていただけたらうれしいです。

講演録

皆さんは、「病気の子どもたちに教育は必要だと思いますか」と、尋ねられたら、どのようにお答えになりますか。大抵の大人、特に教師は、「必要」と答えます。しかし、実際に入院している子どもたちを目の前にすると、「勉強より、今は治療に専念してね」と、言葉が変わります。確かに、数日で退院できる子どもには、この言葉が通用しますが、長期入院などで、通用しない子どももいます。私は、そういう子どもたちとの関わりの中で、多くのことを教わってきました。

子どもにとって、学ぶことは生きること

子どもにとって「学ぶ」ことは、「生きる」ことです。健康でも病気でも全く同じです。私は、医療、教育、福祉など、多くの分野の方とつながりながら子どもたちの学びが保障できるよう努力をしています。さいかち学級では、その観点から大事にしていることが二つあります。

一つは、学校に復帰してもらうこと。もう一つは、子どもに発達の課題に向き合ってもらうことです。このことは、ある中学生の男の子が教えてくれました。鼻に酸素チューブをつけ、小学生時代、体育をほぼ見学していた彼は、中学で念願の卓球部に入部しましたが、練習のマラソン中に倒れて搬送されてきました。母親と看護師から、なぜ無茶をしたのかと叱られた時、彼は「ゴールまであと1周だったんだ。僕も、皆と同じことがしたかった」と、言っていました。この年頃の子どもは、命の危機よりも何かに挑戦したいという、発達の機会を優先させます。これは、成長する上で大事な発達の課題なのです。

声にできないメッセージに耳を傾ける

病気の子どもたちは、築き上げてきた仲間や家族との関係、学ぶ機会など、たくさんのものを失う喪失感を覚え、それは痛みや苦しみになります。中には、今日と同じ明日が来ると思えない子どももいます。さらに病院では、良い患者でいることが求められ、「注射は痛いけど、我慢する」、「本当は寂しいけど、頑張って治療する」など、感情に蓋をして自分を納得させることで、治療と向き合います。これは、本来の子どもの姿ではありません。子どもの姿を取り戻した瞬間、彼らは「明日もさいかち学級に行きたいから、薬ちゃんと飲むよ」など、本当に前向きなエネルギーを出すようになります。また、病気になったことで、「自分はだめだ、役に立たない、愛される価値がない、独りぼっちだ」と、彼らの心は否定的な自己イメージでいっぱいです。

それに対して、教育は、「君はそのままでいい、できることがある、独りぼっちじゃない」と、思える瞬間をつくることができます。そして、そこから子どもたちが本来の姿を取り戻し、治療に向かい、そして生きていく、病気と共に歩んで行くエネルギーをためてもらいたいと思っています。そのために、実践しているのは、子どもをよく見る、声をよく聞くことです。

大人、特に教師は、「声を聞く=言語化させる」と、勘違いしがちです。うまく言語化できないから手を出すのに、「手を出した理由を言いなさい」と言ってしまう。彼らの行動は、サインであり、その奥には必ずメッセージがある。大人が聞くべき声とは、そのメッセージです。「怒り」の裏には、願いがあり、「悲しみ」の裏には、助けてという訴えがある。「喜び」は分かち合うことで倍加し、「恐怖や不安」は、できるだけ早く取ってあげること。尊敬する東京学芸大学の臨床心理学者、小林正幸先生の言葉です。怒りや悲しみはあっていい。それが沸き上がった時に、「僕は、何を願っているのかな」、「私は何を助けてほしいのかな」と、置き換えて考えられることで、次にやることが見えてきます。だから私は、「どんな感情も大切にしていいよ」と、そして、「君は独りじゃないよ」ということを伝えています。

Do(行為)とBe(存在)

とはいえ、何でも受け入れるわけではなく、「受容」と「許容」を区別しています。受容は、感情を受け止めること。行動を容認する「許容」については、だめなものはだめ、やらなければいけないことはやりなさいと、はっきり伝えて、私は一歩も下がりません。それは、他人に迷惑がかかるという視点ではなく、本人のためにならないからです。私のベースにあるのは、「Do(行為)」と「Be(存在)」です。学校は、「できる、わかる」といったDoを大切にし、その力を身に付ける場所です。

しかし、そればかりを突き付けられたら、子どものエネルギーは枯渇します。現に、「失敗したら、僕、だめになっちゃう」と、言う子どもは多いのです。今日という日をリハーサルできる人はいません。だから、失敗したり、できないこともあるし、「助けて」、「手伝って」と、言っていいんだよと、話しています。Doは大事。でもその前に、君は君のままでいい、ここにいるだけでいいというBeをしっかり育てる必要があります。

命の価値

「命が短い子どもと関わる中で大事にしていることは何ですか」と、よく聞かれるのですが、大事にしていることは三つあると答えています。一つは、今しかできないことを一緒に楽しく行うこと。もう一つは、その子にとって当たり前の「日常」を探して、大切にすること。そして三つ目は、彼らが生きてきた証を残すことです。彼らの言葉を詩などの作品という形で残すこともできますが、それ以上に、ご家族やそのきょうだいたちと、「あの子、こんなこと言っていたんですよ。こんな素敵なことがあったんですよ」と、話ができるように、子どもたちの日々の姿を自分の中に刻んでいます。

また、子どもたちのことで、明日に回すことはしないと決めています。これは、小学6年生の男の子に教わりました。生まれつきお腹に病気を抱えていたその子は、数カ月ぶりとなる退院が決まった時、「僕は、ほかの皆が思わないような身近なことに幸せを感じるんだ。だから僕の周りには幸せがいっぱいだよ」と、素敵な話をしてくれたので、詩にしてほしいとお願いしたら、照れながらも書いてくれました。退院から一カ月後、救急搬送されてきた時、面会時間が過ぎていたので、翌日、会いに行こうと思っていました。しかし、その夜に亡くなってしまいました。彼の夢は、病気で苦しんでいる子どもが安心して過ごせる場所をつくることでした。彼の詩は、今もさいかち学級の廊下に貼ってあります。

この日を境に、子どものことで明日へ回すのはやめようと決めました。年端のいかない子どもたちが、向こうの世界へ行ってしまうのは、本当に苦しいです。私はずっと、命というのは、延ばしていくもの、積み重ねていくものだと思っていました。しかし、12歳で亡くなる子どもと50歳で生きている私の命の価値に違いはありません。とすると、命は「1」なのではないか。12歳で亡くなった子どもは、1を12に刻んで精一杯生きてきたんだ。そう思うようにしました。

今、小児がんの子どもの7、8割は日常生活に戻ります。慢性疾患で入院する子どもは2割です。また、大切な親が余命を告げられている子どももたくさんいます。実は、私たちの周りには病気や心の痛みを隠しながら生活している子どもがたくさんいるのです。私たちの心は、喜びや楽しさは想像しやすいですが、悲しみや怒りや痛みは、そういう状態であることはわかっても、程度がどれくらいなのかは想像しにくいものです。だから、わかったふりや、見て見ぬふりをしたり、自分の過去の経験を引っ張り出して、価値を押し付けてしまったりします。しかし、わからなくて当然なのだと思います。だから、わからないことから逃げずに向き合い続けたいと思っています。

今日の私の話を、入院している子どものこととして遠くに置くのではなく、ご家庭や職場、コミュニティ、地域など、身近に引き寄せ、皆さんの周りにもきっといる、心や体が傷ついている子どもたちのために翻訳して考えていただけたら嬉しいです。