第5回講演録

田島義博

学校法人 学習院長

テーマ

「人間力」を育てる

プロフィール

学校法人学習院長。学習院大学名誉教授。(財)流通経済研究所名誉会長。(財)五井平和財団理事。1931年熊本県生まれ。55年一橋大学社会学部卒業。(社)日本能率協会で「マネジメント」誌、「市場と企業」誌の編集長を務める。63年から学習院大学に奉職し、64年経済学部助教授、70年同学部教授、89年経済学部長。90年学校法人学習院理事、91年常務理事、92年専務理事を経て2002年より現職。財務省 財政制度等審議会など多くの政府委員も歴任。著書「日本の流通革命」(日本能率協会)、「商の春秋」(日本経済新聞社)、「歴史に学ぶ流通の進化」(日経事業出版センター)ほか多数。現在、産経新聞にコラム「子育て改革」を好評連載中。

講演概要

学習院長の田島義博先生は、流通の分野が専門ですが、歌舞伎など日本の伝統文化やスポーツにも造詣が深いことでも知られています。平和とは、真の国際人とは、そして人間力とは、という大きなテーマがその豊かな切り口で、わかりやすく語られていきました。またご後援や会場が学習院ということもあり、田島先生を恩師と慕う卒業生の方々も多くご参加されるなど、和やかな雰囲気の講演会となりました。

講演録

本日は「人間力」というテーマでお話をさせていただくわけですが、まず私の専門である流通に関する話から始めさせていただきたいと思います。流通というのはご存知の通り、物が作られてから消費者の手に渡るまでの間に生じる様々な仕事を指すわけですが、私がこの分野を志した理由というのは人間の幸せというものに深く関係がございます。

私は学生時代に、上田辰之助先生という大変優れた英語力をお持ちだった恩師から、13世紀のキリスト教神学の最高峰であった聖トマス・アクィナスという人の話を聞く機会がありました。それは、”人間は神の愛を受けて生まれてきた以上、よき暮らしを営む権利と義務がある。よき暮らしとは精神的、物質的の二つの側面から成り立ち、まず精神的な意味においては、あなたが神に愛されているように隣人を愛せること。物質的な意味としては、暮らしに必要な衣食という良き物を消費者の手に渡るように活動できること”ということです。それまでは物を作るのはとても大事なことだけれど、売る行為は卑しいとされていたことに対して、聖トマスは真正面から非常に大事で正しい行為だと認めたのですね。私はその話を聞いて、”流通”という分野を専門にしようと決めました。流通は人間を幸せにする経済です。社会科学はやはり人間の幸せというものが根幹になければ学問としての価値はないのではないかと思うからです。

平和を守る手段として始まった貿易


私は満州事変の年に生まれ、日中戦争や第二次世界大戦など戦争の時代を生きてまいりました。現在、五井平和財団の理事に名を連ねさせていただいておりますが、それは戦争の悲惨さを日本の子どもたちや孫たちに二度と味あわせたくない、我々の世代だけでたくさんだという気持ちからでございます。

第二次大戦中、多くの学生たちが学徒出陣で戦場に駆り出されていきました。当時の学習院長だった山梨勝之進先生は出陣を控えた学生へはなむけとして、「目白の丘の桜と咲かむ」という和歌の下の句だけを贈り、上の句は思い思いでつけなさいとおっしゃったそうです。桜は学習院のシンボルです。山梨院長は戦地で死んだら魂は目白へ戻っておいで、桜の花になりなさいというお気持ちだったのでしょう。

われわれ日本人は六十余年という長い間、平和を守ってきました。その平和はアメリカから与えられたものだという意見があるかもしれませんが、私は彼らのように戦地に散った多くの命、爆撃や原爆で落とした命、そういう人たちの死と引き換えに得られた平和だと思っています。ですから決しておろそかにしてはならないし、安逸に過ごしてはいけないと思うのです。
人間は昔から戦争を繰り返してきました。

しかし一方では、戦争を防ごうとする努力があらゆる形で行われてきたのも事実です。我田引水で恐縮ですが、実は貿易もその一つの手段でした。欲しい物を手に入れるためには戦って奪うよりも、取引をして手に入れるほうが賢明だということに気付いたのですね。それが拡がり、やがて多くの民族と取引するために文字が使われるようになり、他国との交流が始まるなど文化的な発展を遂げていくことになったのです。

平和というのは、ただじっとしていて守れるものではないと思います。この貿易のように文化的にいろいろな形で積極的に関わっていきながら守っていくべきものなのだと私は思っています。

精神性を重んじる日本文化


さて今年の夏はアテネオリンピックが開催され、日本の選手たちの活躍は素晴らしく、成績も大変よかったですね。その大きな要因の一つとして、スタートダッシュが効いたのではないでしょうか。柔道の谷亮子選手のオリンピック二連覇と野村忠宏選手の三連覇。これが大きく弾みをつけたのではないかと。柔道に関していえば男女合わせて14階級のうち金メダルが8個ですから、「さすが本家はすごいな」と思わざるを得ません。しかしメダルの数もさることながら、私が本当に嬉しいと思いましたのは、礼に始まり礼に終わるという柔道の基本精神がオリンピックのマットの上でも貫かれていたという事実です。選手同士が向かい合い、礼をして試合が始まり、勝負が決まると着衣の乱れを直して再び礼で終わる。時々、外国人選手の中には負けると着衣の乱れを直さずにさっと頭を下げるだけで退場しようとする姿が見られますが、主審が注意して着衣を直させ、礼を交わさせています。

柔道は日本古来の武術を体系化したものですが、ベースにあるのは武士道です。その柔道を外国人も学び、そしてオリンピックのような国際的なスポーツの祭典の場で行われることは素晴らしいことだと思うのです。もちろん競技は国際柔道連盟のルールに則っているわけですから、昔は白だけだった柔道着に紺色が加わってわかりやすくなるなどの変化はみられますが、根本的なルールは変わっていません。連盟の規約の第一条は定義となっており、柔道は嘉納治五郎(講道館創設者で柔道発達の貢献者)によって創造されたるものとありますから、柔道にはこれからも武士道の精神が引き継がれ続けるのではないかと思っています。

茶道であれ、華道であれ、剣道であれ、”道”と称されるものには精神的な要素が強いのが日本文化の特徴なのですね。

達人たちの出発点は家庭教育にあり


これらの伝統的な”道”に身を置く者も、近代的なスポーツ選手でも修練に修練を重ねてあるレベル以上になると、体だけの問題だけでなく、結局は心の問題になっていくことを痛感させられる事例を見ることがございます。皆様それぞれに思い当たることがあるかと思いますが、私は趣味の歌舞伎から一つお話させていただきましょう。春に市川海老蔵の襲名披露公演「勧進帳」を見に行った時のことでした。海老蔵が富樫左右衛門を、父の團十郎が弁慶を演じる予定だったのが白血病で緊急入院してしまい、急遽、坂東三津五郎が弁慶役を務めることになりました。勧進帳といえば主役は弁慶です。台詞に加えて踊りなどの所作が大変難しいし、しかも三津五郎さんは小柄で、決して弁慶タイプとはいえません。実は彼とは八十助時代からの知り合いなので、過去にも弁慶を演じられているとはいえ、もうハラハラしながら拝見しておりました(笑)。でも彼は見事に演じきり、大変好評を得たのです。

私はこの舞台を拝見して、子どもの頃から体にたたきこまれた芸というのはすごいものだと感じました。歌舞伎界には三津五郎さんはじめ、素晴らしい役者さんが大勢いらっしゃいますが、皆さん観客の心に響く何かを持っているんですね。単に芸や芝居が巧いというレベルではなく、子どもの頃から厳しい稽古に耐え、心身にたたきこまれた日本の伝統的な芸能・芸術は彼らの中に背骨のように一本大きく通っていて、それが舞台を非常に大きなものに見せるだけの力になるのでしょう。

近代スポーツにも人を惹きつけてやまない選手たちがいますね。例えばイチロー選手や松井秀喜選手。成功の保証はないメジャーの世界へ飛び込み、ひたむきに自分の信じた道を求めていく彼らの姿に、われわれは感じるものがあるのだと思うのです。彼らも子ども時代から父親にトレーニングされ、相当しごかれてきたそうです。だからといって家庭教育は父親の仕事と思われることは早計です(笑)。野球に関しては、父と子で長い時間をかけてやってきたかもしれませんが、その背景には母親の協力がなければできなかったはずです。また彼らは学生時代、スポーツだけでなく成績もよかったそうです。彼らの出発点にあったのは家庭での教育だったことを私は評価したいと思うのです。

こういったことを考えていくと三津五郎さんにしても、イチロー選手にしても、松井選手にしても人間としての総合力を持っている人たちと言えると思います。

人間力とは


では人間力とは何か。つまりアタマ、ココロ、ハラ(キモ)、カラダという人間の総合的な力のことを言います。最近の若者は背も高いし、体格もよく、きれいだし、体は非常に進化しています。ただ”体”の日本語本来の意味は、「”カラ”ダ」でカラとは入れ物のことをいい、何の入れ物かといえば魂です。入れ物であるカラダは立派で健康なほうがいいわけですから、学校の体育授業も課外活動も非常に大切だといえるわけです。しかし戦後の教育について考えると、アタマ、すなわち偏差値や知識を重視しすぎてきたように思います。アタマは知識・知恵・知性の三つのバランスが大事だと考えますが、日本人は知識の水準は国際的にみてトップクラスでも、知恵となるとだいぶ見劣りするのではないでしょうか。

知識というのは外から与えられた情報ですから忘れるのも早い。一方、知恵はわき上がってくるもので、知識を生かすものといっていいでしょう。よく使われる「頭がいい」という言葉も、学生時代には記憶力が優れていることを言うのに対し、社会に出ると考え方の多様性や切り口の鮮やかさなどシャープであることを指すように変わっていきます。知恵は今後の国際社会を生きていくためには不可欠です。子どもの頃から好奇心を持たせる、感動体験を与える、議論をさせる、違った考え方をする人との交流などの経験をさせていくなかで知恵を生み出す力は養われていくように思うのです。もちろん知識が必要ないということではなく、様々な反復練習の中で、知識が体の奥底に沈殿していくという状況が必要なのだということです。知恵の育て方は今後の日本の教育の課題の一つとなるように思います。

そしてもう一つ大事な知のレベルがあります。それは教養をベースとした知性です。

戦後は、日本人全体が経済成長を目標にしていたために、個人の偏差値を高めていい学校に入り、いい企業に就職し、豊かな生活を送りたいという目標と、社会の目標の構図は一致していました。例えば大学などでも学生数の多さから、細かく丁寧にテストをすることができないので、知識だけをチェックするような形の試験が非常に多くなり、やがて一般化していきました。とりわけ出世主義と結びついた勉強は、就職あるいは大学受験に直接結びつかなければ嫌う傾向はいまでもあります。企業のほうにも多様性に富むよりも定型的な発想を好むという文化・組織風土がございました。しかし国際的な場において、それは通用しませんので、ずいぶん変わってきてはいますが、払拭されたとは言い切れません。

そして、最近、最も憂慮するのは、第二外国語を非常に軽視する傾向にあることです。みんな英語だけはやろうと思うんですね。英語はもちろん大切です。でも言語は、その国の文化を知るキーの役割をします。第二外国語を軽視するということは、いろいろな文化に触れる機会を自ら狭めていくことになってしまっているのです。また歴史や哲学なども、日本の社会でとかく軽視されがちに思います。歴史は過去の出来事のなかから、ある出来事を選び、自分なりに再構成することで、未来を考える力につながりますし、日本と他国の文化の違いを学びとることができる学問なので、歴史を軽視する現状を残念に思います。

私は近頃、学生たちにこういう設問を出しています。「今、国際的に通用する非常にいい音楽家が沖縄から誕生しているけれど、あの人たちと本土の音楽家ではどこが違うのか」と。答えは様々ですが、沖縄の音楽家には民謡というか、島唄というか、沖縄の風土に根づいたものがベースにあります。私はそういう伝統を踏まえた強さが、独特な魅力を作り出しているのではないかと思っています。やはり自分の国の伝統的な文化に根づかない国際人というのはあり得ないと思うのです。

日本の、とりわけ高等教育では国際的に通用するITなど、高度な技術を習得させる必要はあるでしょう。しかし同時に高度な教養と知性を身につけられなければ、国際社会はおろか身近な社会でも、多くの人々を惹きつける人間になるということは不可能です。私はもう少し知性ということを重視する必要があるように思っております。

人の痛みがわかる心に


最後に、人間にとって大切なココロについてですが、心とは何かを考えたとき、包容力であったり、嘘や裏切りや不正を憎む気持ちなどいろいろな言葉で表現できると思います。しかし、結局のところは、他人のことをどれだけ考えることができるかということに行き着くのではないかと思います。言葉を変えれば共感できる心ということでしょうか。

私は日本だけが平和を守っていければいいという発想ではなく、日本が周辺の国々に平和を押し広げていく、そして、そのプロセスを通じて、日本人が尊敬される国民になってほしいと願っています。他国のニュースをテレビや新聞で見て、侵略されればもうしょうがないの一言で片付けてしまうのではなく、私たちの人間力を持って積極的に平和を守っていく必要があると思っています。それにはまず、人の痛みが自分の痛みとして理解できる心が絶対に必要です。心の育て方は実に大事な問題であるということを痛切に感じながら、私は教育の世界に身を置かせていただいております。

今日は、教育に対して具体的な答えを期待してご参加された方もいらっしゃるかと思いますが、数学と違いますので答えは一つではございません。また、答えは人から与えられるものでもありません。そういう意味で、今日は皆様に問題提起をさせていただいたつもりでお話させていただきました。皆様に考えていただく話題が何か提供できたとすれば、私は大変幸せだと思っております。