第60回講演会(オンライン開催)

近内 悠太

教育者、哲学研究者

テーマ

利他と他者理解

プロフィール

ちかうち ゆうた
1985年神奈川県生まれ。慶應義塾大学理工学部数理科学科卒業、日本大学大学院文学研究科修士課程修了。専門はウィトゲンシュタイン哲学。リベラルアーツを主軸にした統合型学習塾「知窓学舎」講師。『世界は贈与でできている―資本主義の「すきま」を埋める倫理学』 (NewsPicksパブリッシング刊)で第29回山本七平賞・奨励賞(PHP研究所主催)を受賞。

講演概要

贈与に関連して近年、「利他」という概念が注目されている。
贈与について拙著『世界は贈与でできている』では、「受取人」の視座から論じた。それに対して、利他とは与える側、つまり「差出人」の立場からの議論と言えるだろう。
ではそのとき、果たして、差出人は意図して利他的行為を行うことができるのか? よかれと思って行った行為が他者を損ない、傷つけるということも起こり得る。
そこで、本講演では利他の本質的困難さ、他者理解とコミュニケーション、そして、これらにまつわる想像力の重要性をテーマとする。

講演録

利他と贈与における想像力の大切さ

贈与に関連して近年、「利他」という概念が注目されています。

私たち共同体の多くの人たちに、利他的な心が育まれるべきという観点もありますが、世の中の多くの人は、自然に利他的な行為をしているので、どちらかというと、人と人との関係性の中で利他の心がうまく相手に届きにくいという側面で語られています。贈与は、哲学や文化人類学などの分野で贈与論として確立されており、多くの論者が様々な分析をしています。一般的には、見返りを期待せずに何かを与えること、近い意味では支援、愛することなどを言い、私は著書の中で「お金で買えないもの全て」と表現しています。

贈与と利他は、同義として扱われることが多いのですが、贈与の当事者は与える側と受け取る側、少なくてもこの二者がいます。私は受け取った側の視点で語られるのが「贈与」、贈与をする側、つまり差出人の視点による行為を「利他」と区別する方がいいと思っています。なぜなら同じ行為でも、受取人と差出人の視座によって全く意味合いが異なるからです。例えば、差出人は100%の善意で相手の利益になると思って行ったことが、受取人からすると、返礼しなければならないとか、お世話になっているから断りにくいなど、些細ながらズレが生じる時があります。

このように利他には、他者の側面が極めて大きく、差し出す側の振舞い方を考えなければコミュニケーションがうまく機能しなくなることもあるので、他者を救いたいと意図的に何かをする時には、相手を正しく理解する配慮が必要になります。その時に大切になるのが想像力というキーワードです。

私が研究をしている哲学者、ウィトゲンシュタインの著作『哲学探究』に何度も登場する言葉に「何も隠されてはいない」という意味の”nothing is hidden”があります。心や思いなど、言葉や振舞いのように外側に現れないものは本当に見えないのかと問うています。臨床心理士の田中茂樹さんの著書『去られるためにそこにいる』に、彼のもとにカウンセリングに訪れた、自分の毛髪を抜いてしまう思春期の女の子と母親のことが書かれています。カウンセリングを重ねるうち、女の子はしっかりものの長女としての役割を意識するがゆえに、甘えたかったり、弱音を吐きたくてもそれができず、感情の矛盾が自分の髪の毛を抜くという、よくわからない症状として現れていることがわかりました。

母親には娘を治してあげたいという利他愛的な動機がありましたが、そのためには娘の生活全体を見て、心の内を知る必要があったわけです。私は、この髪を抜くという行為そのものが彼女の「心」であり、心は見えるものだと思います。相手にきちんと目を向ければ、自ずからその行為は何を示しているのか見えてきます。

他者を助けるには、こうした想像力が必要です。想像力という言葉が大袈裟であれば、観察でもいいと思います。他者の振舞いには何かしらの意味が宿っています。そこに思いを巡らすところから利他は始まり、利他は良かれと思って素早く判断するだけでは届かないこともあるので、それを探り当てる経験を積むことがとても大事だと思います。

利他における道徳と倫理の違い

利他を道徳と倫理の観点から考えたいと思います。なぜ、道徳と倫理なのか。道徳とは、社会のこういう場面ではこうすべきだという外から自分に向けられているマニュアルのような規範、対して倫理は、ほかならぬ私がこれをすべきだという内発的な規範です。

例えば、電車でお年寄りがいたら必ず席を譲る人と、譲る方がいいかためらう人とでは、倫理に近いのは後者です。席を譲るなというのではなく、お元気そうだから年寄り扱いしてよいものかとためらう。このためらいが優しさや利他だと思います。この人にとって私は何をするべきか、相手に対して私という側面が現れるからです。

「お年寄り」や「日本人」など、人を一括りにすることがありますが、一人一人は全く違う個別な存在です。その視座に立つことが利他を行うための大前提に必要であり、私たちはもっと上手にためらうことが大切で、そのためらいの振舞いが倫理と呼ばれるものではないかと思います。

他者を救うことは難しくても、他者を観察し、知ることは意図的にできる。しかし、理屈や頭で考えて行える利他はここまでで、利他にはその先があるように思います。なぜなら、相手を上手に観察することができたなら、利他は恐らく自ずからなされるものだと思うからです。自分の「自」の文字は、送り仮名を変えると「自ら」と「自ずから」になります。自らは意図的に何かをする。仏教の親鸞の言葉で言えば、計らいを立て、自力で何かをする。対して自ずから何かをする場合は他力です。「○○することになりました」という、外からの力に導かれて何かを行う表現が日本語には多いですよね。

そして、また、贈与は、宛先から差出人に逆に与えられることもあります。例えば、私の場合、教育現場で良い授業ができたと感じる時は、私の事前準備がよかったというよりも、生徒たちのリアクションによって私の振舞いが引き出された時です。つまり、受取人の生徒から差出人の私へ、逆に与えられているものがあるのです。皆さんも体験があると思いますが、やる気が出る時って、自力で奮い立つというより、この人のために頑張ろうと思えたりする時ですよね。これと同じです。

贈与には、このようなことが起こり得るし、恐らく利他とは、意図的に何かをしてあげるという自力の次元から離れ、よく観察した目の前の他者に導かれて、自ずからなされるものではないかと思います。

倫理から利他を考える

東京都立大学の阿部彩教授の『弱者の居場所がない社会』の著書の中に、仕事ではないのに、駅前の駐輪場の自転車をいつも整列しているお取年寄りのホームレスのエピソードが紹介され、その方にとっては、その行為は社会とのつながりであり、居場所であり、役割だと認識しているのではないかと述べています。この事例から利他と贈与を考える時、道徳の観点では、ホームレスの方々の救済をすべきでしょうが、倫理からすると、金銭を稼がずとも社会とのつながりや役割を見出し、生きがいを感じている方などへは個別に対応が必要になる。こうした避けて通れない問題に突き当たります。

また、『ギフトエコノミー』という本の著者二人がヒマラヤの牧歌的な村を訪れた時のエピソードで、お世話になったお礼にと、お金ではなく冬用の衣類を大量に村へプレゼントした著者は、村の女性リーダーから、村の全17家庭に、大人服と子ども服が均等に渡るよう分けてほしいと言われました。なぜだと思いますか。

彼女の意図は、「お年寄りに子ども服を渡せば、お年寄りはそれを譲ることができる。全ての家族が同じものを受け取ることで、皆が譲る側・もらう側に立つことができ、それによって村は健全に保たれる」ということでした。不要な物は一人一人違います。しかし、その差異によって、必要なくなった所有物を他者へ渡すという役割がどんな人にも生まれ、周囲の人や社会とつながっている安心感を与えることができる。この知恵は、コミュニティにおいて利他を生み出す素晴らしいシステムだと思います。

利他とは、他者を観察した結果、自ずからなされるものだと先ほど述べました。ならば利他は待っていればできると言い換えることもできます。ただ、今の社会は待たせてくれない社会です。これだけの費用がかかったのだから、納期までに回収せよという市場原理の中にいる私たちは、待つために「ただ居る」ことができず、常に「何かをする、しなければならない」状態です。

利他を人と人との関係から、社会へ広げて考えた時、利他を阻む社会の仕組みは何かを考えることが大切であり、と同時にその仕組みがあるから社会は回ってきた側面もあるので、壊すのではなく、少し緩めようという眼差しを持つところから始められればいいのではないかと思います。