【開催報告】中高生キャリア支援プログラム「私のコンパス」(スピーカー:中嶋優子 国境なき医師団(MSF)日本会長)

中嶋優子氏

より良い世界をつくるために、国内外の様々な分野で活躍する方々の活動やライフストーリーから、多様な価値観・選択などを学び、自分と世界の未来について考えるきっかけを提供する、中高生キャリア支援プログラム「私のコンパス」。

2026年3月26日(木)、全国各地からオンラインで参加した100名が、国境なき医師団日本会長で救急医・麻酔科医である中嶋優子氏から、複雑化・長期化する人道危機の現場における医療援助活動や挑戦、また、直面するジレンマなどを伺いながら、「世界のためにできること」について考えました。

テーマ

世界を飛び回る救急医、国境なき医師団日本会長が語る
― 命を守る医療援助の最前線

普通の日本の学生だった一人の医師が、進路に迷い、試行錯誤を重ねながら、現在はアメリカを拠点に世界各地で医療人道援助に携わるようになりました。
そこに至るには、どのような進路選択や出会いがあったのか、また、国境なき医師団(MSF)は世界の現場でどのような医療援助活動を行っているのか、実際のエピソードを交えながらお話します。
ますます複雑化・長期化する人道危機の中で、国境なき医師団が直面するジレンマや挑戦についても触れ、将来を担う皆さんが「世界のためにできること」や自分らしい進路を考える手がかりとなる視点をお届けします。

スピーカー

中嶋優子 国境なき医師団(MSF)日本会長/救急医・麻酔科医

プロフィール

なかじまゆうこ / 東京都立国際高校卒業。2001年札幌医科大学卒業後、沖縄米海軍病院、浦添総合病院、都立墨東病院などでの勤務を経て、08年米国医師国家試験(USMLE)に合格。14年イエール大学病院で救急研修医を修了後、米国救急専門医を取得。カリフォルニア州立大学サンディエゴ校でプレホスピタル・災害医療のフェローシップを修了。17年日本人として初めて米国EMS(プレホスピタル)・災害医療専門医を取得。24年アトランタ・エモリー大学救急部准教授に就任。18年よりメトロアトランタ救急搬送サービスのメディカル・ディレクターも兼任。23年米国DMAT隊員となる。国境なき医師団(Médecins Sans Frontières=MSF)には09年に登録。以来パキスタン、シリア、イエメン、イラク、南スーダン、ガザ地区など多くの海外派遣活動に参加。現在は米国を拠点に活動に参加。22年3月より現職。

講演要旨

中嶋氏は部活動に打ち込んだ高校・大学時代から、現在の国境なき医師団日本会長に至るまでの歩みを紹介後、10カ国におよぶ派遣先での医療支援活動や経験、その時の思いを話してくださいました。

「国境なき医師団のシンボルマークは、〝ランニングパーソン〟と呼ばれ、困っている人がいれば、紛争地や自然災害の被災地など、世界のどこへでも駆けつける意思を示しています。そして、どんな奥地であっても、世界各地の拠点から医薬品、テント、車両など必要な物資を自前で整え、48時間以内に現地に入ります。

活動の原則は「独立、中立、公平」で、その中で最も特徴的なのは「独立性」でしょう。活動資金はどこの国の政府にも依存せず、個人や民間企業などからの条件の付かない寄付が98%を占めています(2024年度)。特定の国に資金を頼ると、政治的なしがらみや配慮が生じかねないからです。

その上で、「中立」は紛争下でも、いずれの側にも立たないこと、「公平」は立場に関わらず、必要とする人に等しく医療を届けることを意味します。

あまり知られていませんが、国境なき医師団は医療援助活動に加え、「証言活動」も重要な使命としています。紛争や災害の現場で起きている不条理を世界に発信し、停戦や政府を動かす流れを生み出すためです。

また、医療従事者だけでなく、医療援助活動を支える非医療スタッフによって成り立っています。必要な物資の調達から事務管理に至る様々な役割を担うスペシャリストたちで、全体の半数をやや上回ります(2024年度)。

人道危機の現場での気づき

私は15年の海外派遣の経験を持ちますが、現場に行くたびに、そこでの経験が次の学びへつながっていくのを感じています。

初めて派遣されたのはナイジェリアでした。銃撃による負傷者が絶えない中、国境なき医師団のマークが人々に認知され、護衛であっても銃を持たない私たちの安全を守っていることを実感しました。

入国できる国が制限されていたパキスタンの危険地帯で、女性患者への対応が求められた時には、日本人で女性の自分だからこそ担える役割があることに気づき、南スーダンでは、3日かけて病院まで歩いてきた妊婦の患者さんの姿に、医療の届かない地域に医療を届けられるのは、国境なき医師団だけだということに使命感を新たにしました。

シリアでは、手術を毎日手伝ってくれた二人の青年が、空爆で大学を失った医学部の6年生だと知り、卒業目前に学ぶ場が破壊されるという日本では考えられない現実にとても衝撃を受けました。

そして、過激派組織ISの負傷した兵士、ISの爆弾に手足を飛ばされた子どもの双方に対して、複雑な気持ちを抱えながらも「公平」の原則に則り、懸命に治療するクルド人医療スタッフたちの姿は強く心に残っています。

ガザで見た現実

これまでに派遣された地域で最も状況が酷かったのはガザでした。国境なき医師団は1989年から通常診療の援助活動を行っていましたが、2023年10月にハマスとイスラエルの紛争が激化し、緊急診療体制に変わった時に派遣依頼を受け、ガザへ入りました。チームは13人、アジアからは私一人。食糧や水、カイロなどを詰め込み、エジプトから渡ってハンユニスのナセル病院に入りました。

ガザはこれまでの派遣先とは比較にならない破壊規模で、救急隊は空爆が起これば出動し、病院には空爆で重傷を負った患者さんが一度に10人、20人も運ばれてくる日が何日もありました。医療者、非医療者全員が汗まみれ、血まみれになって命を助けようと懸命に働きました。

連日の厳しい状況下で、タフなスタッフたちでも心身への疲労が濃くなっていく中で、私を唯一癒してくれたのは、病院の近所に住む子どもたちの笑顔でした。

しかし、病院付近まで攻撃が迫り、被災者でもある一緒に働いてきた現地の仲間や、癒してくれた子どもたちを残し、無力感と罪悪感を抱えながらガザを後にすることになりました。

生き残っている家族がいない、負傷した子どもを指すWCNSF(Wounded Child No Surviving Family)という言葉が病院内で頻繁に聞かれるようになり、また、医療施設への攻撃の頻度が非常に高く、国境なき医師団のマークを身に着けていたにも関わらず、この2年間で15人ものスタッフが殺されるという前代未聞の事態がガザでは起きていました。

私たちは、国連の安保理にも働きかけるよう、強く抗議をし続けています。

日本からできること

その後、ガザへ戻りたかったのですが、その時の状況が合わず、24年にシリアへ再び派遣されました。

アサド政権の圧政が終わった首都ダマスカスで、一番大きな病院の救急医療の立て直しを担いました。戦禍により多くの医師が国外に流出して不在の中、残された研修医たちと一緒に機器の修理や診療室などの整備、救急医療に不可欠なトリアージシステム(重症度の判別)の講義とトレーニングを繰り返し行い、3週間後には現地スタッフだけで全て運営できるまでになりました。復興にはまだ時間がかかりますが、ガザを経験した私にとっては仕事冥利を感じる瞬間となりました。

ガザとシリアでは「日本も同じだったよね」と言われました。第二次世界大戦後、困難な状況を皆で協力し合い、安全で素敵な国に復興した日本のように自分たちもなりたいと。

この言葉に、私は日本人としての責任を感じました。今、ガザやシリアだけでなく、世界のいろいろな地域で起きている争いの現実を多くの人に伝え、「戦争をしてはいけない」といううねりを一般市民から広げていきたいと思っています。

特に海外では、世界で唯一の被爆国という背景を持つ私たちの発言は、独立性を持った証言活動に重みを与えていると感じます。

デモや署名活動、政府に対する医療搬送の受け入れの提言など、できることは何でも行っています。

日本で災害時に人々が助け合うように、世界でも困った時はお互い様の精神で助け合えたら良いと思うのです。ガザの子どもたちと皆さんは何ら変わりませんし、現場に行くほど、家族や友人への思いなど、人間は皆同じだと実感します。

日本からできることはたくさんあります。将来、医療従事者や非医療従事者として一緒に働くこともできるでしょう。遠くから応援することも、今日聞いたことを周囲に伝えることも力になるはずです。皆で一緒になって、世界中で助け合える社会になればと願っています。

参加者の声

世界で起きている戦争は、自分と少し関係がある程度だと思っていましたが、自分の国が巻き込まれる可能性を基準に考えていたことに気づきました。「困っている人がいればどこでも駆けつける」というお話を聞き、自分と同じ人間である以上、関係ないわけがないし、もっと世界のことを知っていきたいと思いました。

過去の開催レポート